息子がもう高校生だ。信じられない。
 このエッセーを書き始めたのは、10年以上前だっただろうか。息子はまだ幼稚園生だった。ここで何度も書いているように、息子のやりにくさったらなかった。こんな子が、中学生になったらどうなるのか。常に不安だった。今は、大学生になったら、社会人になったら、と考えると不安や心配は続く。だけど。
 今でも充分、息子は成長を遂げている。
 私が貫いてきた、「有無を言わさない、子供に理由もわからないであろうやり方考え方を押し付けることをしない」「自分で選択できることは下らないことでも考えさせる」「選択したことは、自分で責任を持ってもらう」「子供が自分で判断した意見を聞き、尊重する」「色々な人の感情も考える」ということが、しつけより優先的であったことに関してだけ言えば、今の時点では後悔していない。
 そのくらい、息子は穏やかに、温かい子に育った。色々足りていないことはたくさんある。幼少期にああしていればと思うこともたくさんある。できないこともたくさんある。私が気づいていないことも含めて。そして当然ズルいことや嘘も覚えたし、思春期らしく黙りがちだ。機嫌の悪いことは多いし、生意気な口をきく。時には親を小ばかにしたような言い方をする。留守番をして、親と行動を別にしたがる。言うことを聞かない。でも私から見たら、まったく許せる範囲内のことである。生意気で小ばかにする時期だってあるだろう。親ってこういう時、一瞬しかムッとしない。だって自分の子供が言っているのだから、大して傷つきはしない。他人に向けたらそりゃあ叱る。自分に対しても、そういったことで叱ったり、感情的になって問い詰めたりすることもなくはない。でも、グズグズのひどかった幼稚園生や小学校低学年の頃のことを思えば、今は至って平凡な学生なのである。むしろ機嫌さえ良ければよく話してくれる方だと思う。お笑い番組を一緒に観てあれこれ意見したり、漫画や映画の感想を話したり、ゲームでお互いの不足部分をカバーしたり、攻略についてあれこれ話したりする。音楽の話も時にはする。気分が乗れば、そのついでに学校のことだって話してくれる。ごく稀に、友達のことも話してくれる。自分の気持ちや葛藤について話してくれる。聞いていると考えが甘くてムムっとすることもあるが、息子は一通り話すと「聞いてくれてありがとう」と言う。
 もう息子の方が背も高いし、体重だって重いのに、いつまで経っても可愛いだけでなく、いつまで経っても心配がある。夫にもしなだれかかってベタベタと甘えるし、私には膝枕をお願いする。時には、寝る時に横についていてほしいと言う。私が帰国子女のせいで、大好きだと言い合ったり、ハグしたりする習慣があり、息子はそういうことにまったく抵抗がない。
 離れていく息子が寂しいという気持ちは強くあっても、成長する息子が嬉しい気持ちが、ほんのちょっと上回っている。だから、息子が大きくなっていく様子を心から喜んでいる。あらゆる葛藤を乗り越えて心豊かな大人になってくれと切に願う。
 

 そうだ。フィナンシェについて書こう。
 フィナンシェを食べながら気が付いた。私はものすごくこのお菓子が好きなのだ。
 甘い物は嫌いではない。しかしお菓子と言えば、おかきとかスナック菓子の方が好きなくらい、しょっぱい物の方が好きである。そんな中、幼い頃からずっと今でも変わらず好きな甘い物は、アイスクリーム、カスタードクリームの入ったシュークリーム、プリン、チーズケーキ、と割と限定されている。もちろん、他の甘いものを食べたくなることもよくある。今は食いしん坊だし、他の甘いものの良さもわかるようになったので、あれこれと食べてみたくなって誘惑と闘うことがあるが、胃の調子、後の胃もたれのことを考えて我慢できることも多くなった。
 ちなみにあんこは子供の頃苦手で、大人になってから良さがわかるようになっていった。ショートケーキなんかは子供が好きなはずのものなのに、生クリームがあまり好きではなかったので、これも大人になってから好きになった。チョコレートもこれまで書いてきたと思うが、幼少期で好きだった以降、大人になるまでは苦手なくらいだった。
 しかし。半生と言われている焼き菓子は、結構ずっと好きだったと、振り返ってみればそう思う。高校生の頃、自分のため、そして友人におすそ分け、とバターケーキを度々作ってきた記憶がある。夫にもバナナケーキ、ブラウニー、マーブルケーキなど、バターが基盤になっているケーキを作ってきた。そして、フィナンシェもバターの風味が好きなのではないだろうかと思っている。
 タイ焼きやどら焼きも、あんこがあまり好きではなかった若い頃、勧められて食べる時、皮の部分を食べることが大好きだった。そう言えば書きながら思い出したが、カステラも好きだった。だからきっと、タイ焼きもどら焼きも、皮の部分が好きだったのだろう。あんこがたっぷり尻尾までとかを、店によってアピールされても、それほど嬉しいことでもなかった。むしろあんこをさっさと終わらせ、皮の風味を楽しみたかった。皮というか外側のことだけ言えば、パイならパイ生地、タルトならタルト生地が好きで、乗っている物より側の部分が好きなのである。原材料のことは調べたらわかるだろうが、フィナンシェは、私の中で、そういったお菓子の外側の部分だと思われる。バターの風味がたまらない。
 マドレーヌと一緒にされる場合があるが、マドレーヌとは違う。マドレーヌは貝型のお菓子、という風に区別されているが、どうも歯ごたえが違うように私は感じている。フィナンシェと比べると、ちょっと固めでサッパリとした風味。私はもっとしっとりとして、アブラ多めな感じが好きなのだ。作ってみると、きっとバターの量が全然違うのではと思う。お菓子を作り始めた頃に、両方作ったことがあるのだろうと思うが、もう覚えていない。
 フィナンシェを食べながら、どうしても鼻の穴が少し膨らんでしまう。風味が好きなため、そうやって匂いを吸い込み、美味しいなあと堪能しつつ「そうだ、フィナンシェのことについて書こう」と思いついたのだった。

 また時が少し経ち、眠たい時期がやってきてしまった。とは言っても、やっぱり以前ほどではないと思う。急に眠気がおそってきて、昼寝をしようと思っても、20〜30分も寝れば目がさめる。たまには、1〜2時間寝てしまうこともあるけど。昼寝を長時間してしまう時というのは、大抵とても疲れている時だから、よく金縛りにあって、自分がヘトヘトであることを自覚する。そして起きてからしばらくぼんやり。体もとても疲れていて、晩御飯作る頃まで持ち直せないことが多々なのである。
 しかしそうは言っても、子供ができてからは、よほどしっかり寝ないと、ほぼ毎日のようにそんな風に過ごしていたものだから、時々しかそうならないことは、私にとっては日常が変わるものすごい変化である。快適で仕方ない。何かしようという意欲もわいてくる。
 更年期が過ぎてもこんな風に日常が過ぎていくのだろうか? そうだとしたら、これからがものすごく楽しみだ。自分の体をある程度信じて、色々と行動的になれるではないか。
 さて、今回は更年期についてだけど、ほんの少しだけ変化球の内容である。
 気分的な問題だ。以前、イライラするとか不安感については、少し書いたかもしれない。これは、加味逍遥散とエクオールとの併用で、平常心を保っていられるようになったので、とても助かっている。だが加味逍遥散を、規定量の半分、エクオールは一日4回を3回、という規定量より少なくして普段は大丈夫なのが、どうやら足りないらしいことがある。
 また生々しい話になるが、私の生理は、始まってからほぼものすごく精密な機械のように、28日周期であった。普通はその時によってズレるものらしいが、私の場合、はい28日目でーす!とお知らせのように忠実に来ていた。修学旅行が重なりそうな時には、緊張するのか1週間前や後に来たりして、とても便利な私の体であった。これが数年前から23日から33日くらい。そしてどんな周期であろうが相変わらず痛みは激しい。強めの痛み止めが手放せない。当然胃薬も。
 これが何と関係あるのかと言えば、どうしても排卵日前後と生理直前に気分が非常に不安定になるのだ。これが以前の「28日!」と決まっていた頃より不安定だから、いつ来るかわからないのだ。わからないけど、無性に不安になったりイライラ腹が立ったりする。ちょっとしたことで泣きたくなる。普段はやり過ごせることだから、ホント勘弁してほしい。そういう時は加味逍遥散をそっと口に入れる。普段、規定量の半分しかのんでいないから、1粒や2粒なら増やしたって問題はないだろう。そしてそれが効いてきた時間に、妙な幸福感に包まれるのもまた疲れる。持て余す。「ああ良かった」とやたらに感動したり、夫や息子、時には両親や友達のことを思って急に思って涙が出る。書いていて笑える。
 あとですね、生理ほんの数日〜ほぼ1日前に何故かアルコールが飲みたくなるのを何とかできないだろうか。のんでしまうこともあるけど、のんでから生理が来ると、痛み止めの薬ものむので肝臓を酷使してしまっているのではないかと心配する。胃もね。まあ月に1〜2回しかのまないので大したことはないけれど、「そういう時期かな」と我慢することもあれば、どうしてものんじゃうこともある。まあ時には良いんでしょうけどね。
 どうしても自分のホルモンに随分踊らされている印象はある。

 米津玄師という名前を初めて見たのは、平日の、朝の情報番組でだった。
 見た感じは、いかにも今どきのミュージシャンで、「最近の若者の心に、歌詞が響く」ということで人気らしい。なるほど、目がまったく見えないくらい覆い尽くした前髪は、昔のサングラスの役割を果たしているのね。とか言いながら息子の顔を偶然見たら、食い入るように見ている。
 「? あれっ? 知ってるの?」
 と聞くと「知ってる。」と言う。
 へえ。やっぱり今どきの人なんだーと思い、
 「何て読むの、この人の名前」
 と聞くと「よねづさん」と‘さん’付けである。なにそのリスペクトした感じ。もしかして本当に尊敬の念を持って見ているのだろうか。
 「下の名前は?」
 と聞くと「けんしさん」とまた‘さん’付けである。
 ああ、大切に思っているんだ。自分の中で‘さん’を付けないと、と思うくらいにスゴイ人だと思っているんだ。ちょっと嬉しくなった。そういう人が息子の心の中にいるなんて。そして「ダンスも上手いし、絵もすごく上手なんだ」と言う。あらあら結構知っているんだ。私はそんな人、聞いたこともなかった。
 「アルバムとか欲しくないの?」
 と聞くと「良いよ別に。ネットで聴けるから」とまた今どきな返事。
 そうかあ。そうなのかああ。でも私が聴きたくなってきたぞ。耳にしたことのある曲Dふぁし、有名なのだろう。歌も上手ではないか。きっと、こんなに若者の心をとらえる人の音楽は面白いはずである。しかも息子が自分で見つけてきて、初めて気に入っている音楽がどんなものか、聴いてみたい。
 そこでクリスマスプレゼントにアルバムを買うことにした。「イヤがらないかな」と夫に相談して。夫は「子供が聴かなくても自分が聴く、くらいの気持ちなら良いと思う」と言うので、ちょっとだけ緊張しながら息子にプレゼントした。
 すると、意外にも「おお! 嬉しい! ありがとう!」と、喜んでくれた。
 そして車の中で聴いてみると、これが思った以上に面白かった。
 若い人なのだが、声が思いの外、大人っぽい。落ち着いた声と歌い方。サウンドも、どうも私たちの世代が20歳前後に聴いたような雰囲気。1990年前後ですね。でも今どきな疾走感が少しあり、言葉数の多さも、ちょっとラップが入りそうで入らないような感じも、今どき。でもロックで言葉のメッセージも強いのにメロディがキレイでオリエンタルな雰囲気。サビがわかりやすい。久保田利伸とか岡村靖幸とかを連想させるような、ちょっと懐かしいような、それでいて今どきな感じが、なかなかのセンスを感じるのだ。
 幼い頃から色々聴かせてきた結果が、このような音楽の好みになっていることが感慨深い。これから少しずつ変わるだろうけど、一発目がこれか。なかなか良いぞ!

 中学三年生の息子に、とうとうお気に入りのミュージシャンができた。
 もう私としては両手を挙げて大喜びなのだ。
 今まで書いてきたように、私はクラシックやロック、ポップスなど音楽鑑賞が好きな父と、バイオリンをしつつロックやポップスも受け入れる母との間で育ち、ピアノは少ししたものの特定の音楽を強制されない環境で、伸び伸びと自分の好きな音楽を聴きながら育ってきた。幼い頃は洋楽のディスコミュージックやロックやポップスを主に。セサミストリートで聴いた音楽は自分の好きな音楽の基盤となっているかもしれない。
 中学、高校に通う頃には、テレビから聴く流行歌の中でも好みが出てきて、それだけでなく、友達から教えてもらった邦楽のロックや映画のサントラを繰り返し聴くようになった。既にだいぶ好みがハッキリしていった。それは思春期のモヤモヤを歌詞にしたものであったり、その時の気分を盛り上げるものであったり。バンドブームもあり、ブルーハーツなどのわかりやすいバンドのロックも聴くようになった。大学以降は書き始めるとそれはもうキリがない。今まで何度か書いてきたようなこと。
 最近は、相変わらず奥田民生ユニコーンも好きだけど、ここに書いてきたように他のミュージシャンの曲も聴いたり、やはり映画のサントラも好きなので繰り返し聴く。若い人たちが聴くような疾走感のあるみずみずしいサウンドも面白い。新しくできた交友関係から、洋楽の、それまでは聴かなかったアルバムも聴く。車の運転をすることが多いので、その時や、一人でのウオーキング、散歩の時にイヤホンをして楽しむことも多い。
 息子も中学生になって、そろそろ自分の好みのミュージシャンはいないものかと、もどかしく思っていた。中学一年生の頃の私はもうお年玉でカセットデッキを買って、歌番組を録音したテープをよく聴いていたし、ウオークマンもお年玉やお小遣いで買って、登下校中の電車の中で繰り返し好きな曲を聴いていた。
 息子には童謡も歌ってあげたし、子供向けのテレビ番組で楽しく可愛い曲もたくさん聴かせてきたが、車の中では親の好みの曲ばかりを聴かせてきた。夫の好きな曲。洋楽。邦楽。主にロック。そしてブルース。私の好きな曲。やはり洋楽。邦楽。主にロック。自分たちの気分次第で車の中でかける曲を、息子が聴きながら育った。車の中では子供向けの曲を聴かせてあげる親が多い中、これで良いのか。と少しは頭をかすめはしたけど、私は幼い頃から母のバイオリンや自分の弾くピアノ、父の聴くクラシックのレコードからだけではない、いやむしろ多くを占めていたのが洋楽のディスコミュージックやロック。このような音楽を聴いて今の好みが出来上がり、息子に悪い影響があるとは思えなかった。世の中には色々な音楽があり、それを聴くのは自由なんだよというメッセージすらあった。
 そのため、息子がどんな音楽を好むようになるのかを知るのが楽しみだった。でも中学生になっても、二年生になっても、なかなか息子自身が発掘した音楽の好みというものがないようだった。音楽は時に気持ちの支えになるので、見つけてほしいと思っていた。
 そして中学三年生も後半になる頃に、ようやく好きなミュージシャンがいるらしいことを知る。

 「グレイテスト・ショーマン」を観に行った。
 映画予告から華やかで、歌がカッコ良くて、とても楽しみにしていた。
 舞台は1800年代半ばくらい。サーカスと言うと、1975年頃、アメリカでリングリングサーカスを観に行った私には懐かしい思い出がある。空中ブランコが華やかで、あれができるようになりたいな〜なんて思っていた。皆のパフォーマンス、アクションも派手で、動物も出てきた。子供たちは手元のライトに付いている紐を持って、そのライトをブンブン振って光をぐるぐる回したものだった。その様子がキレイだったし、子供たちの興奮度合いがその光のぐるぐるで表されているようなものだった。
 この「グレイテスト・ショーマン」は、リングリングサーカスの前身と言われ、実話をもとにしたものだという。でもそれは後から知ったことで、この映画を観ながら、リングリングサーカスの幾つかのシーンを思い出したことは言うまでもない。
 ストーリーは簡単で粗め、ありがちな展開。以前観た「sing」を思い出したシーンも幾つか。又、一つ一つのことを全然掘り下げない。深刻にならないし深みもない。でも音楽とダンスを際立たせたくて、単純にわかりやすくしたのではないかなと思う。
 何といっても、音楽とダンスなのだ。
 音楽はどの曲も良かった。「良かった」と一言で済ますのがもったいないくらい良かった。「this is me」は有名になったが、映画の中で観ると、もっと心を打った。
 20代の頃、友達や、夫となる彼に連れられて、ブロードウエイのミュージカルを幾つか観に行った。中でも「レ・ミゼラブル」で聴いた歌は素晴らしく、初めて「人が歌っている」という場面で心を打たれて涙が流れた。歌声とかその人の迫力とかその人の魂となった言葉とかに感情を揺さぶられたのだ。近くに座っていたおじさんも涙を流していた。国籍、年齢、性別、全部関係なしに同じように感動する姿がまた良かった。もしかして記憶をたどると、その時以来ではないかと思われる。「歌声、迫力、魂となった言葉」に感情を揺さぶられて涙が流れたのは。映画を観る前に何度か聴いた曲だったのに、そうかこんなに良かったのか。「もしかして更年期だから?」と自分で思うくらい、涙が止まらなかった。
 あと気持ち良いのが、ダンスである。かなりの迫力なのだ。
 これが映画を観終わった後の、サントラでもっと響いてくるから面白い。ストーリーを単純にした理由が、サントラを聴いていてわかってくる。涙が止まらなかった「this is me」はそれはそれで良いのだけど、それ以外の曲の良さが後になってとても映えてきている。オペラとして歌っているのが、ポップで全然オペラに聴こえてこないのだけど、この曲もこの曲でやっぱり良い。他の曲も90年前後に聴いたことがあるような一節が入っているような馴染みやすく作られている気がする。歌詞も、映画に合わせてとても言葉が力強く訴えかけてくる。歌詞の力、言葉の力を感じるように、映画の中でも随所で心に響くセリフが織り交ぜられている。言葉に傷つくというのは、どの時代でもある。今どきの若者にもSNSでこういう気持ちがとてもよくわかるのではないだろうか。そして言葉で救われるのもまた言葉の素敵な力なのである。

 女性たちは、ハラスメントを受ける側として、「仕方ないのだ」と言い聞かせて我慢してきたし、勇気が出なかった。言ったところで、ほぼ誰も相手にしてくれないことも知っていたし、自分がその組織の中で立場が悪くなるからだ。居心地も悪くなるからだ。だったら出ていけ、どうせ辞めるんだとか言われることも多かっただろう。私もお金が貯まるまでの期間と、自分で決めていた。でもそれは入社面接の時に、話していた。私には夢があって、それを果たすチャンスは逃したくないから、その時には言うと。でもそれが女性だからとか男性だからとかでなく、辞める人は辞めるし、辞めたくない人はやはり働き続けたいだろう。やっと少しずつ表に出てくるようになったのに、セクハラされるようなことをするからだとか、対応が下手だからだとか、女性のどこか武器のようなものを自慢しているのだとか言われて、やっぱり口を閉ざすことも多い。
 でも思い返してみてほしい。特定の女性だけではないはずだ。多くの女性が我慢していることがあるはずなのだ。被害を受けた人が多数派ではないだろうか。被害を受けない人は、単に運が良かっただけである。「それに値しない人」というような発言をする人がいるようだが、そういうことじゃないだろう。そういうことを言ったりしたりする人は、正直、ちょっと身なりに気を遣っている女性ならほぼ誰でも良いのではないかと思う。女性を下に、甘く見ているからだ。だから無差別的で、多くの人がいやな思いをしているはず。なのに、そういうことを言う人たちに私たちは屈してしまっていた。謎の「女性だから」という理由で、言ってはいけないと思わせられていた。
 でも母親の立場になり、もし娘がいたらと思うと、この問題は我慢ならなくなってきた。息子が女性をそのように扱うことも私は許さない。女性はいつまで我慢し続けなければいけないのか。相手が少しでも隙を見せたら、何を言っても許されるのか。笑って済ませたら、しつこく声をかけられ続けなければいけないのか。相手がどのように感じているかを考えないのか。自分の「声かけやすいから面白い」という気持ちだけを押し付けないでほしい。にこやかな笑顔の裏に、どんな気持ちを抱えているか考えてほしい。自分が立場や力が強いなら、特に細やかに考えるべきなのである。
 パワハラだって同じだ。パワハラに関しても、甘い人がいる。その中に「自分はそうされてきたけど、後悔していない」という人が少なからずいる。それに対して、ある芸能人が「どうしてそういう人って、武勇伝みたいに語るんですか?」と呆れて笑っていたことがあった。本当にそう思う。それの何がカッコいいものか。その人はそういう場に身を置いても頑張るタイプの人間だったし、頑張ってきたんだねというだけだ。私は「自分もそうされてきて、それを耐えてきたから」と発言する人を、自分と向き合えない、考えない人だと思っているし、保身だと思っている。自分もやって構わないだろう、責めないでよ、っていう。本当にそれが自分のためになったのか。単にそれを経て今があるということだけではないか。誰にでも通用するやり方なのか。周りが、例え自分の子供であれ、自分とまったく同じ感覚を持ち、同じ性格で同じように感じるとでも思っているのだろうか。個人個人の元々持っている素質、思い、環境、育ちによる人格形成を軽く見ないでほしい。