例えば中学高校時代に同じグループにいたからと言って、大学でそのメンバーで集まった時に嫌な気持ちになることをとてもわがままだと思っていたけど、そうではないのではという気持ちにやっとなれてきた。本当は誰のことも心から好きではなかったからという気持ちには気づいたけれど、そう思うことに対してものすごい罪悪感があった。皆と仲良いフリをし続けていたこと。誰にも良い顔をし続けていたこと。それほど無理しているわけではなかったけど、中学高校時代の女子同士って、お弁当食べたり短い休み時間に先生や授業や友達の話をしたりして、大した中身のある話なんかしていないのだ。それが大学生になって、段々とお互い異なる環境でいる時に、「考え」とか「主張」とかその人の芯が見えてくるようになる。そこでああ合わなかったと気づくことだってある。だけど、そこで私はじゃあサヨナラとできなかったのだ。皆の受け皿にならなくてはという変な固定観念に縛られていた。皆に好かれなければという気持ちだったのかもしれないけど、私はとにかく皆の話を聞いてあげたいという気持ちと共に、何かしら心の内を話してくれる人の気持ちを大事にしたいという思いがあったのだ。それには自分のことも話さなければと。だから相当無理をしていた。良い人であらねばと我慢していた。特にそのグループで集まる時には、皆の思惑がわかり、それぞれの主張の気持ちがわかり、だけど二人で話していた時と違って強がっているとか、突っ張っているとか、ある部分では賛成できるけどそこの細かいところはそうは思わないとか、それに対してこの人は反対の気持ちを持っているけど黙っているとか、集まっている人それぞれの気持ちを感じ過ぎて、自分の気持ちなんか言葉にできなかった。皆の気持ちと自分の気持ちとで頭の中がパンパンになってしまのだ。共感したいと強く思う気持ち、皆の気持ちでパンパンになるところ、どちらもhspの特徴らしい。
 そんなことを知ると、ここ数年葛藤していた中高生時代の知り合いたちへの葛藤がスッとラクになるような思い、腑に落ちる気がするのだった。
 彼女たちはその点に関しては、鈍感だったのだ。いけないこととは思わない。だけど、私の敏感さには気づいていなかっただろうし、今後も気づいてはもらえないだろうし、言ったところで受け入れてもらえないのだ。そうすると「じゃあ私はこれでいいじゃないか」と思えたのだ。彼女たちと付き合い続けたとして、私にはやっぱりストレスだらけだろうし、自分の気持ちは彼女たちにわかり得ないと思えば、罪悪感からは解放される。私の気持ちの細かな変化に関しては、一人に打ち明けたけど、その子に理解してもらえたとして、彼女はじゃあどうしたら良いのかということに関して考えることはないだろう。
 他に、皆のことが大好きで誰からも好かれている人がいる。大勢の中にいても平気で、そうやってタフじゃないとやってられない立場にもいる。彼女のような考え方にどうやったらなれるのか。彼女とやり取りするのは楽しいが、背後にある人間関係を想像すると圧倒されていやだなと思っていた。だけどそれも彼女の良い意味での「鈍感力」が備わっているわけだし、私は敏感なのだ。それだけだ。