子供が小学生の間、大地震にもあった。原発事故で感情を振り回されて、こちらにいる友人や顔見知り程度の人たちとの葛藤ができた。
 そしてこちらに家を建てて住むことになった。これには相当な覚悟が必要となった。アパートを出たい気持ちが一番強かったが、ここの土地に家を建てるということは、アパートで暮らす以上に、ここの地の一員になることを自分自身に覚悟させた感じがある。
 東北地方というのは、関西に住む人たちにとって「田舎者」とバカにされているところがある。私はその感情を知っているが、それでもここに家を建てることを選んだ。
同窓会の写真を見ながら、関西を離れてからの、あらゆることが頭をよぎった。
 あちこち移り住んで今東北地方に住んでいる者として、主婦として、子供に教育を受けさせている者として、関西での中学高校時代の知人というのは、あまりに遠い存在となっている。
 私の場合、兄一家も関東に住んでいるので、両親もそのうち東日本に移り住むだろう。そうなったら、私が関西に行くのは大好きな友人たちに会いに行くという時だけである。
 だからと言って、私がここの県民になりたいとかなりきるとかそんな気持ちはない。年取って車の運転も自信がなくなってきたら、息子の近くに住んで、何かあれば頼ることになるだろう。関西の人間でも今住んでいる県の人間でもない。札幌でもニュージャージーでもない。私は「どこの人間」でもないのだ。
 そして、同窓会の写真に写っている多くの子が「関西の人間である」ことを自覚しているだろうと思う。いったん関西を出た人でも、そうやって「戻ってきている」という人もいる。彼女たちも同じ日本であちこち行って異文化を知ったとしても、やはりその場所で集まり、そこの場所に強い執着があり、何より「皆で集合する」ことを選んだわけである。
そこの間には太い太い線があると感じた。
 こんな気持ちになってから、大切な友人たちと、過去の友達について話してみた。関西にいる友達たち、こちらでできた友達たち、そして他にいる友達、意外と「学生時代の友人たちとは続いていない」という人が多いことに驚いた。みんなそんなものなのかな。今、目の前にいる温かい友人たちを大切にしたい。私はこれで良い。
 関西という場所に関しては、親友には会いに行くだろう。今会いたいと漠然と思っている友人たち何人かと今後もしかしたら会うこともあるかもしれない。でも中高時代の皆と会いたいという気持ちは、今後も起こらないだろう。そういう気持ちがハッキリしたし、私はこういう人付き合いの仕方なのだと受け入れることができた。今の友人たちは、きちんと話し合える人たちばかりなのである。
 ただハッキリしてきたものの、まだ私の思考は発展途上である。こうやって考えていくうちにものすごくスッキリしそうなのもまた私は知っているし、それが楽しみなので、思考はやめない。モヤモヤしているうちはそのうちストレスになり得るから、私はまだ考える。そして、もう何度か友人たちと話したら、完全に吹っ切ることができそうだと確信するに至っている。