札幌での暮らしは、寂しく泣きたくなったことばかりではない。
 スーパーなんかは、関西での事情をあまり知らないまま結婚生活を始めたため、ニュージャージーから札幌に移り住んだ時、そりゃ「こんなの関西にはないなあ」「食料の物価は安いなあ」と漠然とは感じていたものの、そちらの方が基準となってしまった。
 何よりも、イクラとホタテを安く買えることは私の楽しみであった。生を買ってきて、家でさばく。自分なりに味付けする。そこの地での食料を知ることは文化そのものである。
 他に、新しい友人ができたし、札幌で暮らしている間に子供に恵まれた。ただ私は、夫に「家族」としての自覚を早々からもってもらうために、札幌で産むことを当然としていた。不安だったけど、子供のことで、自分が一番に頼る人は夫でありたいと思っていた。
 そして子供に対する気持ちをめぐって、中学高校時代の友人との意見があまりにも違うことにショックを受けた。私はやはり帰国子女の血が騒ぐ。「子供をこういう風に育てたい」という基準が、ニュージャージーで受けた教育なのだ。色々とそれまでにも葛藤があったが、子供ができてから、中学高校時代の女子グループとはもうきっぱりしよう、きっぱりできるのではないかという気持ちが強くなった。その後、ずいぶん経ってから修復しようと試みたが、相手ももういやだと思ったようだ。
 札幌で母親友達も多くできたが、子育て事情も関西とは多くが違った。
 そこからさらに、現在住む東北地方に移り住んだ。夫の仕事の事情である。最初に話が来た時に、夫が決めることだと思ったけど、札幌より仕事をする環境が良さそうだと私も思った。
 ただ田舎町なので、今まで住んだ関西よりも札幌よりも、ずっとずっと保守的で閉鎖的であることは、暮らしてから知った。札幌の時と比べものにならないくらいの孤独を感じた。息子も育てにくい時期に突入し、私は度々怒鳴ってしまったものの、よく精神状態を保っていられたと思う。夫も早い帰宅を心掛けてくれた。
 ここの土地で、自分が良いと思う幼稚園を選び、子供を通わせ、先生方と連絡を密に取り、地域の小学校に通わせた。小学校に関しての選択肢はほとんどないに等しく、先生との相性は、運を頼るしかなかった。でも相性は最悪だった。特に3年生以降は。校長先生も教頭先生もひどかった。5年生くらいで何度も話しに行ったが、とても話の通じる相手たちではなかった。絶望的な気持ちに何度もなった。そしてそんな私の気持ちを支えてくれる友人たちが何人かいた。彼女たちは私が帰国子女からくる考えを理解していたし、彼女たちはそうじゃなかったのに、家族関係について真面目にそしてゆるく、迷いながら育てていて、教育について話し合うことが私の気持ちを温かいものにしていった。
 その小学校にいてそういう先生たちと向き合ったことで、改めて教育について考え、自分の「こうあってほしい」という気持ちとかけ離れている教育環境と息子とのすり合わせを何とかかんとかこなして、そこの地域全体の小学校から生徒が入ってくる県立の中高一貫校に通わせることができるようになった。