小学一年生くらいで帰国した私は、その後の小学校生活を、ショックの連続で過ごした。帰国後の小学校から、さらに転校した先でイジメられたこともあった。帰国子女、転校生、という異質なものに対して、すごく冷たく、理解しようという気持ちなどさらさらない同級生たちを見て、そういうものは封印することを身につけた。
 中学校に入ってからは、帰国子女が多かったので、あえて隠すことはなく、英語の発音を伸び伸びしてもむしろ褒められるような環境で過ごせたことはとても良かったが、中学二年生の時のクラス替えで親しい友人たちとことごとく離されて、友達を作りたいと躍起になった。ようやくできた友人たちと中学三年になるとまた離された。その頃には部活の友達同士でくっついている人たちが多かったので、私は居場所がなかった。今親しくしている友達二人は、それぞれに部活の友達がいたし、取り巻きが多くて、私はそういうややこしい関係に首をつっこみたくなかったし、その時からそんなにベッタリしていたわけではなかった。そんな時に、私を受け入れてくれた子たちがいて、私は恩に感じ、その子たちとうまくやっていくことに心を砕いた。なんとか打ち解けて楽しく過ごそうとし、本当にしょっちゅう笑って楽しい経験を毎日のようにしたものの、私は自分が「帰国子女である」ということはすっかり封じ込めていた。
 私の「帰国子女である」ことは、英語の授業で先生に指名されて音読する以外に発揮されることはなかったし、そこの葛藤をわかってもらおうという気持ちもさらさらなかった。
 改めてどういう部分で友達とわかりあいたかったのかと聞かれたら難しいのだが、やっぱり「違い」について論じることや、お互いの心情、細やかな感受性について話し合うことだったかなと思う。今も続いている人たちとはそういう話でずいぶん時間を砕いている気がするのだ。そういったことについて論じることは、私が大事にしている考え方であり、受けてきた教育や文化なのだ。
 ベッタリいた女子グループでは、お互いの秘密とも言えない小さな秘密を打ち明けあって、別の友人の噂話やそういう対人関係の感情について話したりはしたけど、私の芯の部分や気持ちは話さなかったと思う。だから私はすごく面白くて楽しい学校生活ではあったものの、表面的な自分で「これで楽しいから良いや」と思い込むようにして過ごしていたのだ。
 大学を卒業すると、貯めたお金で自分の意志でニュージャージーに行き、そこで夫と出会い、結婚した。ニュージャージーは、自分を取り戻す大切な旅となった。
 帰国すると札幌での生活。兵庫県宝塚市で過ごした私にとって札幌での冬は過酷で、そして孤独だった。吹雪の日にどうしても出なければいけない時に歩いていると、学生時代の友人たちのどのくらいの子たちが、この生活を想像できよう?と思った。ニュージャージーで暮らすより、ずっと寂しく、吹雪の中を歩きながら、よく泣きたくなった。
 雪が降り積もった後、夫と外出しようと車の周りの雪かきを始めたら、二人で二時間かかってしまい、車が動かせるようになった時点でくたびれ果ててそのままウチに戻ったこともあった。