前回書いてから時間が経って、まだ『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2』について考えることがあるが、当たり前だけど感じ方は人それぞれで、「観た」と言う人と話しながら温度差を感じることがある。
 何があんなに琴線に触れたのか。改めてほんの少し振り返ってみた。
 この映画の印象的な人物と言えば、何と言っても、ヨンドゥなわけで。でも温度差があるのだから、私が「この映画を気に入った多くの人が、ヨンドゥを愛した」と書いたのは大げさなわけで。何故私はあんなにもヨンドゥの気持ちに心を動かされたのかと考えてみると、結局は単純に親としての気持ちだった。
 私が一番グッと来たのが「お前は良い息子だった」と、ピーターの頬を包むシーンだった。ヨンドゥが気持ちを成長させていく映画でもあると思ったが、よく考えてみると、ヨンドゥはもっと前からちゃんと親だったのだ。だからこそ胸を打ったのではないか。
 「1」の方を観直しても、ヨンドゥの親っぷりはよくわからない。「2」を観ても途中まではまったく気づかない。もちろん最初の方で流れる「MR.BLUE」で泣けちゃうのは、アルバムを聴いて歌詞の意味を感じ取って、観るのも二度目以降なわけで、途中まではヨンドゥ、邪魔な存在くらいである。でもあれほどつきまとうのは、周りの部下たちの意見だとかいうより、心配だったからではということを後から感じる。本当に終盤にバタバタと、「父親的役割を果たしていたのだ」ということがわかっていくのだけど、ピーターが仲間との絆を走馬灯のように思い出す場面の中に、ヨンドゥとの思い出がある。たった数秒ほんの一場面だけど、ヨンドゥがピーターに武器の使い方を教えている映像はとても印象的だ。真剣な顔のピーターと、嬉しそうな顔のヨンドゥ。ああこんなに可愛がっていたんだと気づかされる。
 そして何よりもずっと気づかなかったピーターも、私のような観客も、何故気づかなかったのかと思えば、ヨンドゥが親面をしていなかったからである。
 そこだ!
 「ヨンドゥが親面をしていない」
 これこそが本当の親心ではないだろうか。親面をする親なんか、ロクな人がいない。とすら言ってしまおう。子供に対する威厳とか貫禄とか批評や周りへの見栄とかじゃなく、親はただ子供のボスであれば良い。見守り、待つのが親の仕事だと私は思っている。できているかどうかは別として。あとは、子供と生活を楽しもうではないか。時には(いや、度々かな)お互い感情的になることもあるけど、基本的に親子って性格が違う者同士なのに密接な関係にあるから、楽しむに越したことはない。そして子供が、親である自分と違うことを感じながらそれを受け入れ認めていって、親となっていける。それこそがヨンドゥのしてきたことであり、エゴのできなかったことである。だからエゴは親になれなかったのだ。子を、思い描いたように支配したいエゴに包まれていたから。
 やっぱり「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2」は、ヨンドゥがメインなのだ。ピーターもロケットも、ヨンドゥによって成長している。後からそれに気づかされる。