『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2』は、サントラを聴き込みながら、かなり余韻にひたっているが、『オデッセイ』と同じく、深刻なシーンで深刻になりきらないところが、息苦しさから解放されるようにできている。私にはこのくらいが良い。その手法は、明るい曲と、ふざけた登場人物たちのユーモアで、観ている側のしんどくて辛い気持ちの逃げ道を作るといった感じである。それが場違いであろうと下品であろうと、そうやって気持ちや心を軽くしたりその場をしのいだりすることに私は知性を感じる。
 クライマックスになる直前、皆の戦闘シーンでもやっぱりグルートはのんびりしている。最初の場面のように、皆は激しく戦っているのに、あまりその場面は映らず、アライグマのロケットがグルートに一生懸命どのボタンを押すか教えていて、グルートがなかなか要領を得ない。そこが深刻なシーンにも関わらず軽い。そしてグルートは限りなく可愛い。
 そして「2」のメインテーマ、主人公のピーター・クイルが、生みの父親を求める気持ちはとても良い塩梅に表現されているし、愛しく思う気持ち、可愛いと思う愛情は、生みの親じゃなくたって、大人は育てながらでも充分与えてやれるのだと感じる。そしてガモーラとネピュラ姉妹の育ての親のような場合もあるのだということも。こういった様々なケースを見て、生みの親でも育ての親でも、虐待する人はいるし、真の愛情を注げる人はいるのだと思う。そして真の愛情は、伝わりづらく見つけられにくいものなのだ。ああそうだったのかと後から気づくものなのかもしれない。
 映画の最後でグルートが思春期の頃なのだろうか。少し大きくなって、ゲームばかりしているシーンがチラリとある。だらしなく根を出しっぱなしにしていないで片付けろなんて叱られるシーンは実に人間臭い。どこの世界でもおそらくゲームざんまいの子供を注意し、だらしない態度を注意している親がたくさんいるのだろうと思うと笑えた。そしてそれも子供の先を少々心配してのことなのだ。
 ちなみにロケットは今回、ヨンドゥとの絆を感じる。盗みをやっていたことやそれをやっぱりダメなことだと思い知らされたこと。仲間を裏切ることはやめないといけないという話を聞くところ。ケンカしながらヨンドゥに「おまえは俺そのものだからだ!」と言われるところ。宇宙空間で耐えるスーツができる物を渡すところ。「これ以上仲間を失いたくない」とガモーラを止めるところ。そして最後にまた泣くところ。観ている側はそれらの場面に心を動かされるし、そういう場面を観ながら、ロケットも成長していくのを感じる。
 この映画、全体を通して血がつながっていようとつながっていなかろうと、家族の愛と悲しみと仲間と切なさと成長、限りなく感傷的なものを、乱暴に下品に、そして明るく陽気に見せてくれる。その明るさが、返って胸にせまってくるのだ。