その中の一人にどうしたら良いのだろうと、当時、相談したら「皆に良い顔をし過ぎなのでは?」と指摘された。「そんなことはない。それぞれのことを気に入っているから」と即反論したけれど、それは私の気持ちに一石を投じた。そういう風に見えるのか? 私にもそんな気持ちがあるのか? そしてそれは何年もかかって、ようやく認めることとなった気持ちであった。私は皆に良い顔をしていた。それは、皆に好かれたい気持ちもあったかもしれないが、それ以上に強かったのは「皆のことを好きでいたい自分」「皆のことをそんなことで(何か傷つけられたり、嫌な気分になったり)嫌いになったりなんかしない自分」「皆のことを見捨てたりなんかしない自分」のことが好きだっただけなのだ。そんな自分のことが可愛かったに違いない。これに気付いた時、私は愕然とした。こんなことが45歳にもなってようやくわかったのだ。
 人に対する好き嫌いがハッキリしていることは公言できるくらいなのに、何故私は我慢して付き合ってしまうことがあったのか。我慢することで、嫌な部分はどんどん積もっていき、ある時に爆発してしまう。爆発というのは、その時、信頼できる友達にすべてをぶちまけてしまうということである。迷惑なのだ。ぶちまける頃には、もう本当に心底嫌になっているので、相当の不満や愚痴がたまっている。これが時々繰り返されていて、そんな自分が嫌になっていた。せっかく自分のことが嫌いになりたくないから我慢してきているのに、何をやっているのだ私は。
 そして好き嫌いのハッキリしているが故に困ったことは、同じグループ内で、好きな人と嫌いな人が分かれてしまうことであった。だから自分の好きな友達が自分の嫌いな友達と付き合いがあることで、そういう人の名前がちょっとした会話に出てくる。嫌いな友達がそもそもそれほど接点のない人なら構わないが、以前親しくしていた人だったりするとものすごく嫌悪感が出てきてしまう。なんて勝手なんだろう。自分で頑張って親しいフリをしていただけなのに。相手にも失礼ではないか。
 自分が格別親しい二人が、私の嫌いな知り合いと接点がないわけではない。だけど、昔からそれほど深く関わっていない人ばかりなので、私とは違う魅力があるのだろうと思って、流すことができる。今さら自分が彼女たちの一番になりたいなどとは思わない。もう充分、彼女たちの私への思いに信用があるからだ。でもそこそこに楽しく話せる友人たちから、嫌いな友人たちの名前を耳にし、メールなどで目にするといやな気分になる。
 ここからどうして良いのかわからなくなった。この話を、今親しい友人にすると、「でも、好かれたいと思う気持ちは自然なことだし、そういう状況で、そう振る舞ってしまうのは当たり前のことだと思う」と肯定してくれた。私は本当に温かい友達を持った。
 そして、その人と共通するある性格的な特徴を知ることが最近できた。
 そのことに関しては、また別のカテゴリーで改めて書いていく。
 私は、そのことで、自分の中でもめていたことを、ようやく解決の方に向かせることができてきた。