こうやってグダグダと友人関係について書いているうち、中学高校六年間、私たちの学年を受け持っていた先生が、この春、退職した。
 ちょっとした手紙を送ったら返事が返ってきて、一緒に小さな冊子も同封されていた。先生が、思い立って学年だよりみたいにして、先生方とリレーエッセイを書いたものをまとめたものらしい。中には私の話も書いてくれている。先生としては、自己満足でも良いから何か残すことができれば、という思いというようなことを書いていた。内容はなかなか興味深い。先生ってこうあってほしいなあと他の先生のエッセイも読みながら感じた。
 やっぱり同時に思い起こされる感情があった。
 それは、いい加減で無責任で面倒くさがる思春期特有の感情でもあり、複雑な思いであり、やっぱり無責任な立場からくる言動の数々なのだ。
 学校に通うのに電車を使っている人がほとんどで、都会でもあるから、各駅に色々な店があった。お嬢様学校なので、制服のまま、物を売っているお店に入るのは構わないが、喫茶店やファストフードなど、飲み食いは禁じられていた。だけどそれを完全に守っている人たちは少なかったと思う。先生の目が届かないだろうと、ほとんどの人が各駅近くのファストフードに寄って飲み食いした経験があるのではないだろうか。そして卒業生がそれを見つけると学校に報告し、誰かと特定はされなくても、全校集会で度々、私たちは叱られた。だけどそういう時「そんなおばさんの言っていることなんて古くて」と内心笑っていた。そう、しょせん「おばさんの言っていること」なのだ。そして私はおばさんになったのだ。あっという間だ。当時、大学を卒業して何年かしたらもうおばさんの部類に入ると思っていた。だって私たちは10代だったから。だけど年を重ねると、私たちがおばさんというより、10代は子供に過ぎないのだ。自意識ばかりが強くなって大人の仲間入りの気分でいたけど、あまりにも子供なのだ。大学生になってからも当然大人だと思っていたけど、やっぱり子供なのだ。いくら大人があれこれ言っているのを批判してみても、何よりも経験が足りない。それは体験という意味のものだけでなく、感情の経験なのだ。失敗や葛藤や喜び。大人でもそれが身にならない人も山のようにいるけれど。
 だけど、「子供の」当時は、自分の感じたものを信じて疑わなかった。そしてそういうものだと思うし、それを経なければいけないと思うし、大人がしたり顔で教え諭すものでもないと思う。そんな風に私が子供だった頃、友達同士で話すことの意味は何だったのか。
 もちろん社会性とか協調性とかすり合わせとか、それこそ仲が良いからこその葛藤が生じ、自分がどういう考えを持ち、どういう会話を楽しく感じ、どういう人が嫌だと思い、自分の中の様々な部分や友達の色々な面を見る経験となる。もちろんその後に役立つものであると思う。
 そうやって友達や先生との付き合いを通して自分や人を学習する、みたいな理屈で無理やり考える役割はあるだろう。だけど、当時はあまり深く考えずに単純に楽しいかどうかだけであったように思う。それで良い。