自分がどういう友達関係が好きかどうか考えることで、中学高校時代の友人たちと誰彼となく会うことに抵抗があることについて、少しずつ理解できるようになってきている。
 中高時代の友人で会いたい友達は何人かいる。もう30年くらい喋っていない人。その時から続いている二人の親友とは、今でも会うと楽しくて、時間が過ぎるのもあっという間。だけど、当時親しくしていたのに会いたくない人もたくさんいる。当時から嫌いだった人もたくさんいる。そういったことを思い出す度に、ものすごく嫌な気分になる。何故なのか考えたかった。何故「考えたかった」のか。思い出すたびに嫌な気分になることが辛いからだ。頭を振り払っても、そういった人たちにつながる情報や話はどうしても出てくる。その度に「会いたい人たちがいる。でも会いたくない人たちがいる。思い出したくない人たちがいる。」と思うのがいやなのだ。そして当時、親しくしていた自分のこともうんざりだし、当時嫌いだった人達への感情を思い起こすこともうんざりなのだ。
 あとついでだから書くが、女性タレントたちの中には、全女性に、そこそこでも良いから話の面白さを求める人がいる。そうやって「全ての女性に」客観的になることを求めるのが、どうにも好きではない。
 何故なら私も若い頃は、至らず、うまく立ち居振舞えず、気の利いた言葉の一つも言えず、どうして良いかわからず、イキることもカッコつける頃もあったし、自慢げにふるまうこともあったし、回りくどく自慢することもあった。今だってうまく立ち振る舞えない。うまく喋れない。若い頃より少し客観視できるようになったのと、自分を受け入れることができるようになってきたことと、人それぞれに事情があることを理解できるようになったくらいである。
 だけど! 若い時は、うまくできなくたって良いではないか。少しくらいカッコだってつけたいし、自慢だってしたかろう。空の風景やラテアートを写して見せる人たちがいたって良いではないか。私だってもし若かったら、インスタなどやりながら、そういう写真の一つや二つ、載せちゃっていたかもしれない。遠回しに自慢したい気持ちも、彼氏を自慢したい気持ちも、彼氏といてうまく振舞えない彼女のことも、私は若いからということで理解できる。批判的な目線、客観視することは大事だし、時に笑えるが、それが若さなのだ。皮肉に笑う人もいて良い。だけど、そういうことを言ったりしたりするすべての女性がそんなにダメな子たちだろか。そういうのを許容できない不寛容な社会に私はすごく窮屈さを思える。
 それに、「うまく」振舞えないと、いけないものなのか?なんと窮屈な世の中かと思う。「うまく」ふるまえる人を、若い頃は羨ましいと思っていたが、年齢を重ねてくると「若いのにうまいな〜」と思うけれど、個人的にあまり良い感情はわかず、むしろ否定的。
皮肉を持って冷静な目で見る人ばかりだと、世の中つまらないし、その人の人生じゃないか。ああ、あの人、今イタイな、と笑っていたら良いではないか。
 人それぞれの事情があって、個人個人で違うことを、ひとくくりにするのは一番嫌いなことである。