女子同士でキャッキャと騒いでハシャイで、面白く時間を過ごすことが楽しくて大好きだった私は、女子グループという中に身を置くことでその気持ちを満たしていたのだろう。
 それなのに、大学以降は、キャッキャとハシャイでいるだけではいられなくなり、皆の対抗意識を感じたりしてすごくいやになった。
 そもそも中学高校の頃の会いたくない人たちって、当時から対抗意識を表情や態度から感じていた人たちなのだ。あらゆることにおいてもそうだったし、今もっとも親しくしている二人も、当時結構な人気者で、同じ学年の子同士で取り合いになっていた。そういうところもすごくいやだった。二人のタイプはそれぞれに違ったので、取り合いになる層も種類が違う感じだったけど、それ故に私はかなり多くの子に対抗意識を感じさせたりしていたのかもしれない。でも私は二人の内面を見込んでいた。自分のことはおおいに棚に上げて、「見込む」だなんて、何様なんだよと自分にツッコミ入れたいが、この子たちは、表面やちょっと探ってわかるような子たちではないと思っていた。そして彼女たちの感受性の強さや情緒の豊かさに魅力を感じていたのだ。自分が入れてもらっていた女子グループのことをバカにしているのではなく、そのグループ内で、それほどの感受性とか想像力の豊かさとかどんなに話しても深くはもぐれなかったのだ。私には物足りなかった。
 仕方ないではないか。
 という結論には達するのだが、どうにも「何故当時の私は、我慢して付き合い続けていたのか」とか「本当は好きではなかったのに、私は何故」とか「でも楽しかったんでしょ。今は良いの?」とかいう思いが拭えない。グループ内の対抗意識と共に、親しくしている二人をめぐっての他の同学年女子たちの対抗意識も思い出して、心底いやな気持ちになってしまう。
 とりあえずの最初の段階として、「そうか、キャッキャとハシャぐ女子同士の雰囲気が好きだったんだな」と気づいた。さらには、そのキャッキャを失いたくなくて、我慢してでも皆に好かれていよう、自分も好きでいようとしてしまっていたこと。
 女子のキャッキャが好きなら、嫉妬とか対抗意識とかどうしても出てくるのに、そういうことはいやだ。でもそういうことまで楽しんでこその女子グループなのかもしれない。私だってその中で、こっちであの子の、あっちでこの子の愚痴を言ったりしていたではないか。だけどそういう自分が本当に嫌いだった。そういう感情が芽生えてしまうことを認めつつ、受け入れられなかった。みんなのことが好きになりたい。でもなれない。結局私はそういうことを早くから匂わしてくる人を遠ざけるようになった。女子が三人以上集まれば、私を含め、そういう話をしたがってしまう。そして自分のことも相手のことも嫌いになってしまう。それには一対一で付き合うことが一番ラク。ストレスも少ない。自分が自分の判断でその人と付き合える。そうやって女子グループとは離れたはずだ。だけど、皆としては急にどうしたのという感じだろう。私は皆と誠実に付き合っていたつもりで、誰とも壁を作り、誰のことも対等に見ていなかった。自分のロクでもない部分とも向き合わなくてはいけない当時の自分を思い出すこともいやだ。