しかしである。彼女のそういう心情がまったく理解できないし、彼女も私の「会いたい人はそれなりにいるけど、会いたくない人はその3倍くらいいる」を理解できないであろう。しかもよくよく考えると3倍どころではない。ほとんどいやだ。
 ほとんどいやだ。と思った時に「ええ〜……。私、そんなにみんなのこと嫌いだった?」と思い返したのである。あんなに好きな学校で、楽しい日々を過ごしていたのに。
 私が、その細々と続いている彼女や少々やり取りのある彼女とはさらに別に、全面的な信頼を置いている二人の友達がいる。連絡してくれなくて寂しいことがあっても、彼女たちへの気持ちが揺らぐことはまったくない。彼女たちが私を決して嫌いになったりしないとか、私を信用そして信頼もしていることを知っているからだ。彼女たちは私に対して対抗意識はなく、お互いの幸せを願っている。と思う。少なくとも私はそうだ。自分より幸せになってほしいくらいである。自分のどういう部分を見せるのも怖くない。駆け引きもない。意見とか考えも遠慮なく言う。もちろん気づかいはあるが。そして彼女たちも、中学高校の頃の友人たちに特別会いたくないと言う。なんなら二人とも大学はそのまま女子大に上がらず、別の大学を受けた。そこら辺からもう私よりずっと思慮深く、考えているし、私みたいにバカみたいに無邪気ではなくて当時からの葛藤があり、それを乗り越えてきている。
 私は自分の無邪気な部分は決して嫌いではない。今もアホかと言いたいくらいに無邪気なところはたくさんある。「アホか」と言いたいくらいだから、本気でいやになることもある。でも良い所であるとも思う。それは息子を見ていてそう思うからだ。これは天性のものだし、親が大事にしてくれた宝物でもある。だからこそ気持ち良く学生時代を過ごせたのだ。だけど、ある一面においてもう少し考えが及ばなかったものかといやになることがあるのだ。その一面の一つが友達関係のことである。
 もちろん自分で葛藤できたこと、自分で選んだこと、自分で考えることができたことは素晴らしい。だからこそ今の人間関係が出来上がり、友達に関しては、なるべく口出しをしない母のおかげで私は今すごく友人関係に恵まれている。自分が母親になってからの友達たちもあらゆる葛藤はあるけれど、今落ち着いている段階で周りを見渡すと、相当素敵な友人たちに囲まれている。
 何故私は、高校を卒業してからもそれほど好きでもない女子グループを裏切らないように我慢して付き合いを続けてしまったのか。それにより割り切れなくなってしまったのか。
 色々考えてみたが、今、一つだけ思い当たることがある。
 映画「ララランド」のおかげです。
 私は、女子同士でキャッキャと騒ぐことが好きだったのだ。仕方なかったのだ。元々、今でも、テレビや映画を観ていて私の目は男性より女性を追ってしまう。すぐ可愛いとか思ったり魅力的とか思ったりする。男性より女性の方が感心がある。でもドキドキ好きになるのはもちろん男性なんだけど。皆そういうもんなのかわからない。