他に、自分の内面と向き合おうとしない人もいやなのだ。事実だけ愚痴として述べてきて、そこからの葛藤をしようとしない人は、苛立ってしまうのだ。そこも単純に私の好みである。「考える」ことをする人、「知ろう」とする人、でないと、そういう風に考えないこと、知ろうとしないことで、周りにどういう影響を及ぼすのか想像できない人、と私の中ではつながっている。
 あとは、こういう人はいやとか好みとか意識的に思っているわけではないけど、気が付いたら、私の周りは、私にとってお姉さん的な存在の人が多い。多分親しくしている人は全員だと思う。一人、10歳くらいだったかだいぶ年下なので甘え上手な人はいるが、その人も「それで良いのよ」「何か手伝えることがあったら言って下さい」と言って、時にはお姉さん的な気づかいや気配りを見せてくれる。世話好きで、私が至らないところに気が回る人たちなのだ。彼女たちのそういったところに惹かれている人たちは多いと思うのだが、彼女たちの心の葛藤にまでは至らないようで、私がそういう話を好きで聞くから、彼女たちは何となくいつまでも私と付き合い続けてくれる。自分の中の精神的な葛藤や、話し相手である私の意見に真摯に耳を傾ける人たちなのである。そうやって誠実な人ばかりだと思う。誠実というのはその場限りだけでなく、彼女たちの生き方にも表れていて、葛藤があり、それぞれの人生に真摯に向き合っている。そして私に対しても誠実であろうとしてくれる。お互いの気持ちが伝わると、信頼できると思って心を割れるようになる。
 多分、他にもそういう人たちは多いと思うのだが、その表現の仕方、表面に出し具合が、性に合っているんでしょうね。
 さんざんこんなことを書いているのは何故かと言えば、実はいまだに自分の中で未解決の問題があるからだ。未解決というより、この感情の行き場や後始末がわからないという感じ。
 私は中学から6年間、女子校に通った。大学もそのまま女子大に上がったが、女子大は学校のカラーが少なく、その割にレッテルを貼られるのだけど、私の中で一人の先生以外はあまり大きな存在ではない。やはり中学高校の6年間が私の中でとても大きく占めている。この楽しかった思い出といやだと思ったことが度々あった当時の気持ちとがぐちゃぐちゃに混ざっていて割り切れないのだ。(これを載せる今現在はだいぶ解決しました。)
 当時の私は、今思えば頭を抱えるくらいに無邪気であった。それでもすごく葛藤もしていた。中学二年生くらいでは家族との隔たりを強く感じ、中学三年生くらいでは友達たちと「何となく」うまくいかなくなった。本当に「何となく」である。自分の気に入った友達たちがそれぞれに成長していくのを、私はどのように捉えて接したら良いかわからなかったのだと思う。そこで新しくできた友達グループがいた。彼女たちは私より「無邪気」という意味ではなく「雰囲気が幼く」て、背伸びしたい感じと、でもできない感じが表れていたと思う。それでも慕ってくれる彼女たちを見捨てることもできないし、何より自分が一緒にいて面白かった。ここで言葉を選びたいのは「楽しい」のではなくて「面白かった」のだ。好奇心とか興味を持ったし惹かれたのは間違いない。