私には昔から今でも、好奇心にまかせてすぐ人に質問してしまうところがある。
 そのくせ、「ああ言えばよかった」「ここを聞き忘れた」ということも山のようにあるのだけど。それは、知的好奇心だけでなく、ミーハー心で聞くこともある。
 ただただ私はその場ですぐ知りたいのだ。決して自分一人で考えてすぐに答えが出るようなことを聞いているわけではなくて、チンプンカンプンの時や議論したい時、考えたところで答えがわかるはずもない時、はてさてどうしてこうなるのかと単純に考えてしまう時。それはよく母親が子供に何かをしてほしくて「どうして○○しないの?」という質問ではない。本当に「どうしてだろう?」と疑問に思っているので、もしかしたらそれは人によっては、責められているように感じることもあるのかもしれない。「何でこの人こうなの?」「何でこんな風になってしまったの?」は、イヤミとかじゃなく、本気で「原因を知りたい」のだ。自分で調べたら良いのかもしれない。だから、責められているように感じるかもしれないし、何故自分で調べもせず聞くのかと思うかもしれないし、甘えのように感じられるのかもしれない。だけど、たった今書いた文を読み返せばわかるように、それは相手の感じ方なのだ。「相手の問題」であって、自分の問題ではない。
 こうやって考えていくと、幼少期の場面が思い出された時に「アナタのせいではないよ」と幼い自分に心から言えることができるような気がした。
 これは私にとって、ものすごく大きなことなのである。
 相手が傷ついたと訴える時、怒った時、自分のせいだと強く思う。それが客観的に見て自分にそれほど非がなくても。そして自分が怒った時もまた自分のせいだと強く思ってしまう。それは、おかしなことなのだ。「やっぱり」自分に非があった。ということはなかったのだ。それは自分の性分による相手の感じ方だったのだ。
 母に話してみて本当に良かったと思った。
 母が大事に思っていてくれたから、せっかくの素敵な部分、裏返せば至らない部分、が失われていく私の様子を見てうまく対処はできなくても、私は全否定をせずにすべてを失わずにここまで来れた。ただ幼少期の私はそうやって発揮することがあると、多々否定されてきたから、最近まで失わずにいたその部分を自分の中に見つけると否定してきた。ダメなところなんだと自分を責め続けて、幼い時のように一人で泣き自分を傷めつけていた。
 私は40年越しの自分の「納得できない」気持ちに、本当の意味で終止符を打つことができたのだ。自分に怒りが湧いてきた時に、また自分を責めることがあるかもしれない。でも、こんな考え方を知った私は、自分が怒るのはおかしなことではない。相手が怒るのもまた相手の問題である。自分のせいではないと思えるだろう。
 もしそれで相手を傷つけたら、どちらが悪かろうが私は謝るだろう。だけど、今までと気持ちは違うと言える。
 本格的な更年期を迎える前に大きなことが解決できてよかったと思う。きっとこれは、今後の人間関係にも大いに影響があると思われる。高齢になった時も、うっかり自分で自分を骨折とかいう心配もないと思う。