結局母に話してみることにした。
 ギリギリまで話すかどうか迷っていたが、でも自分にも悪いところがあったのではないかと思い出したことは大きな発見だったので、話したのだ。「こんなところに気づいちゃったよ。私も悪かったんだね。」と。
 そうね、アナタにはそういうところがあるよね。と、同意するだろうと思っていた。
 ところが違った。
 「だって、アナタは本当に可愛かった。誰が見ても。どんな人が見ても。それはもうどうしようもないくらいに(外見のことじゃあないです。仕草や振る舞い、言動のことだと思います)。それに対してジェラシーの気持ちを周りで持つ人もいたんだと思うよ。それをお母さんはどうしようもなかった。周りにうまく対応できなかった。」
 そういった内容のことを言った。
 「ジェラシー……??」
 新鮮な言葉に私はリピートしてしまった。そして「何で?」とまた聞きたくなった。私は嫉妬されるような存在ではなかった。確かに無邪気過ぎて可愛かったのは認める。写真の中の私も、八ミリの中の私も、ものすごく無邪気で天真爛漫、こんな女の子が自分にもいたらメロメロである。今見てもアハハ!笑うしかない。ってくらい可愛い。だけどオマエが悪いと言ってきた相手は、そんな私が憎たらしかったはずだ。
 母の言葉で気づいたこと。それは、アナタは悪くないというメッセージがあったことと同時に、そういう私の部分を宝だと思って大事にしようとしてくれていたことだ。そして自分より無邪気な人を見たら、誰でもそういう感情は持つものだということ。私も持ったことはある。ただ私はその子に対して意地悪なことをしたり、言ったりすることはなかった。自分が外でイジメられていた時期も、孤独で辛かった時期も、そのストレスを、好きなその子に向けることはかった。無意識に傷つけていたかもしれないし、偉そうな言動をしていたことも自覚はあるが、わざと嫌なことを言うことはなかった。
 つまり、誰しもそういった感情を持つにしても、それをその子に向けるかどうかは、その人次第なのだ。その人の気持ちの問題。その人の問題。
 「その人の問題」
 という言葉は、心理学系の本でよく目にする。相手が怒ったり悲しんだりしている時に、自分もその感情に巻き込まれないために。自分に対してその怒りが向けられている時はとても有効な考え方。だけど、それは知識として知っているだけで、時々言い聞かせても感情がおさまらないことも多いし、なんとなく「その人の問題、その人の問題」とブツブツ心の中で言うだけで、本当の意味で自分の中で消化できていなかったのではないかと思う。
 今回、初めて実感できた「その人の問題」。
 そうか。私は「やっぱり」悪いところもあった、のではなく、私のせいではなかった。「オマエのせい」と思ったのは、その人の問題だったのだ。私の無邪気なところが気に障るのもその人の問題。