そして、私の「何とかしたい」という気持ちが、事態を大きく動かした。
 こういった気持ちが、幼少期に植え付けられた思考回路に起因していることはわかっている。いつもフラッシュバックのようにその場面がバッとよみがえってくるからだ。自分で傷つけた自分の体を見て、今回はかなり引いた。「なんじゃこれ。大丈夫か私。何とかせねばならぬ」と。
 お風呂でリラックスしながら、ふと「あの場面をわかっている。私は何か傷つけられたことを言う。そして泣く。泣くとオマエが悪いんだろと言われる。……ちょっと待って。私は‘何’を言われたのか。何故私はオマエが悪いと言われるのか。もしかして、私に本当に悪いところがあったのではないか。思い出せないのは、思い出したくないからではないか。思い出そうとしないからではないか。」思い出せないかもしれないけど、思い出したくないことを思い出さなければ、これは解決できないと私は自分で気が付いた。
 この辺りは、カウンセラーとクライアントとを自分の中で二役演じることによって、導くことができた。カウンセラーなら、私が聴き手なら、どのように引き出すか。なんと問いかけるか。頑張ってみた。
 ほどなく私は思い出したのだ。ほぼ40年ぶりに。
 そしてそれは割と辛いことだった。やっぱり私にも非があったように感じたからだ。無意識に、無邪気にする言動により、相手のカンに触るのだろう。私はあらゆることに無邪気過ぎたのだ。そして今もそういうところがある。すぐ人に聞いてしまう。ふと湧いた疑問を口にする。人と議論したくなる。又、自分の力を出し切らずに人に頼る。これでも良いと思ってしまう。要するに甘えているのだ。そしてそういう部分を無自覚に出し、相手に指摘されビックリして、そう受け取られるのかとショックで涙が出る。そして「また泣く。オマエが悪いんだろ。泣いたら良いと思って。」とか言われる。そうか、この流れか。思い出したら、涙が止まらなくなった。私もやっぱり悪かったのだと思った。その当時も自分が悪いと思った。人前で泣くことも甘えのアピールになってしいまい、いけないんだと思って、一人でこもって泣くようにした。もちろんそういう風に分析していたわけでもないし、言葉もたくさん知らなかったけど、私の気持ちがそうだったことは今なら言葉で表現できる。そしてだからこそ、誰かに見つけられても「私が悪いの」と言い張ったのではないか。
 ショックだった。やっぱり自分にも悪いところがあったのではないかと。そんな幼い自分に対して「アナタのせいじゃないよ。」と心の中で抱きしめることなどできないではないか。だから今までなんとなくずっと納得せずに引きずって、すっかりと克服できずにいたのではないか。しかし、ものすごいことを思い出してしまったという思いと同時に、でもここを何とかすれば完全に乗り切れるはずだと感じた。でもどう何とかすれば良いのかがわからない。
 カウンセラーの力に頼るべきか。もう少し自分でどうにかならないものか。自分の中のカウンセラーは行き詰まっているぞ。