これを載せる頃には「そんなこともあったかなあ」なんていう小さな話題だが、割と深いことだと思って書くことにした。
 世間では「そば湯」について地域差があり、今少々話題になっている。
 夫と出会うまで、私はそば湯の存在について知らなかった。今回、話題になったことで知ったことは、関西にはそば湯の文化がないらしい。北海道が地元の夫が、そば屋で出されたそば湯を慣れた感じでつゆに注ぎ、飲むのを見て、私も「そうするものか」とマネをした。そばの香りが強く、とても美味しかった。以前もここで麺について書いた時に、札幌在住中にそば屋巡りについて述べた気がするが、かなり色々と回って比べた。色々な種類のものがあると知ったし、つゆに関しては、店によって違いすぎるくらい違った。なかなか好みの味に出会えるものではなかった。
 関西にはそば屋が少ないのかと言われたら、そうなのかもしれない。うどん文化だと改めて言われるとそうなのかもしれない。母はうどんが大好きだが、そばも好きで、時にはそば屋にも行った。梅田や三ノ宮に出るといつも私に「どんな物が食べたい?」と私の意見を優先してくれていたことに最近気づいてなんとなく胸がいっぱいになった。だって当時、あまりにも気づかなかったことだったので。親になって初めてわかるそういう親心である。私はそんなことに無頓着で、本当にその日の気分で「こういうのじゃないんだよなあ。ああいうのが食べたい」などと言ってフラフラとあちこち歩かせて、気に入ったお店に入ってもらっていた。その時の気分でそば屋のこともあり、母が喜んでいたことも思い出す。だけど、そば湯なんて出なかったんじゃないかな。
 とにかく私は割と世間知らずなところもあったし、祖父母は北海道、新潟、岐阜、岡山の文化を持ち寄って兵庫県に暮らしていたものだったので、私が何の文化を知っているのかわからなかった。アメリカに住んでいたものの主に兵庫県南東部の文化で育ち、どこが基準で誰の影響か、それとも我が家独自の文化なのか、よくわからなかった。知らないことも多かった。とにかく周りを見て状況判断、ということは習慣づいていたし、受け入れやすい環境の中で育ったのだと思う。だから、夫がそば湯を「知っている」だけで「へー!」って単純に感心しちゃって、マネをした。そして美味しかった。
 そこで私が言いたいのは、食べることとは言え、そば湯を飲んでいる人を受け入れられるとか受け入れられないとかは、その人のあらゆる文化に対する器の大きさをはかるようなものだと思う。心の豊かさというか。宝塚、札幌、そして今の地域に暮らしている時、どこに住んでも保守的な人が必ずいることに気付く。私はそういう人たちを残念に思う。何故なら世界がすごく狭いからだ。私だってそう広いわけじゃないのにというのが前提で、私以下なのかっていう情けない感じ。彼ら彼女らの、自分の地域しか文化として知らずに頑なな感じは、意外と人を傷つけるし、知的好奇心レベルが低く感じ、そういうことで人間性がちっちゃいなと思ってしまうのだ。自分の知っている世界しか受け入れられないなら、その狭い世界で生きていれば良いのだけど、話していてつまらないとかこれ以上話しても無駄かと投げやりな気持ちにさせられる。
 そば湯をきっかけに、その「人」を知れるなあとしみじみしてしまった出来事だった。