しつこいけど「ララランド」をまだ引きずっている。
 最初観た時の「あら?」という呆気に取られた感じは遠い彼方にある記憶。これで良いのかという思い。女性側のエゴ。男性側の自己満足。ハッピーエンドなのか何なのか。
 それが、最初に飛行機のパネルで観た「筋だけ追えたわ」という時の感想。
 そう。筋だけ追えた。若い若い皆さん。筋を追ってリアリティを追求したものだけが素晴らしいと思い込んでいませんか。夢が叶うとか叶わないも含めて。
 そして声を大にして言いたい。映画はそういうものもすべてが素晴らしい。そして違うのもまた素晴らしい。映画はどこにリアリティを置くか、自由なのだよ。
 奥田民生の歌詞じゃないが、私も「若いつもりが少しは年を取り」、若い人より少しは経験が積み重ねられ、若い人よりもう少し映画をたくさん観ているようだ。それはただ観ているというだけでなく、激動なんかじゃなくとも人生を積み重ねた経験が、映画を観ていて生きてくるのだ。面白いもので。自分の人生経験が映画に生かされ、映画によって気持ちの経験が豊かになる。良いですね、映画って。水野晴郎ほど映画を観ていなくてもそんな言葉を言いたくなる。
 いやあ、「ララランド」の感想は色々あり、批判も色々あり、仕方ないよな、人それぞれの観方があると思っていたけど、あまりに「ええっ?!」と驚いた感想があったからだ。それは「カップルや夫婦で観終わったら気まずい」てもので。しかも少なからずそういう感想があると言う。いやあ、まだまだ熟してないですなあ。いつの間にそんなものを私は超えてしまったのだろう。夫と何度も観る私がいる。夫もそんなものは超越している。私たちはゲイなのか。いや、私がそういう部分だけ男性的なのか。いや、だとしたら夫がゲイ側なのか。……そういうことじゃないか。
 まあその感想を読んで「ええっ?!」と驚いたものの、まったくわからないわけではない。何故なら、自分の相手が実はこういうものを抱えているのではと思うからなのだろう。さすがにそこはそう言っている人たちの気持ちの想像はつく。或いは、こういうものを抱えて今の自分と一緒にいてくれるのか。またカップルは、この先うまくいかなくなるのか、愛する者同士でもこんな風になってしまうのか、複雑な気持ちかもしれない。
 ああでも映画ってそういう風に楽しむものではないのだ。夫の細かい心情までは知らない。だけど、そんなものを追求してどうなると言うのだ。お互い「こういう心境ってわかるよね」という共感が楽しいのではないか。だって、50年近く生きてきて、20代の頃と同じわけがないじゃないか。20代で結婚したけれど、その頃から色々な思いを抱えてきたはず。絶対に言えないとかそういうことじゃなくて、聞かなくて良いことってあるでしょ。遠慮とかもあるかもしれないけど、それ以上に聞く必要のないこと。言う必要のないこと。別に自分で抱えてたって良いでしょう。私は大好きな相手が、男性だろうと女性だろうと、自分のあらゆることを知ってほしいタイプだけど、それでも別に言わなくて良いことをあえて言おうと思わない。