ここのカテゴリーでは色々書いてきた。自分の勉強してきたこと。息子と接していることを発端として芽生えた「人の心について勉強したい」という思い。それによって振り返った自分の幼少期や思考の傾向。それに伴い知った「発達障害」という言葉。もちろん全然専門家ではないが、ある程度説明できるくらいには勉強した。子供への接し方も見直した。自分のことも省みた。
 そしてさらに、まったくそういうのがない人は少ないのではということに思いが至った。それを個性と呼ぶこともあるし、うまくできない人のことを、なんでと信じられない思いで見ることも減った。嫌な人は相変わらずいやでも、その人たちと距離を置いて見ることもできるようになった。
 しかし。最近一つの疑問が大きくなってきている。元々持っていたものだけど、それが大きくなることによって、少し自分を疑い始め、ほんの少しうろたえていもいる。そう、自分も結構その仲間なのではないかと。
 自分にもその傾向はあるとわかっていた。忘れ物がひどいこと。落とし物も多いこと。それはちょっと日常生活に支障をきたすくらい。必然的に買い直しが多くなるし、周りに迷惑をかけることも多い。あまりに多くていちいち落ち込んでいても全然直らないので、笑い飛ばすしかないのだが、もちろん秘かにすごく落ち込むこともある。落ち込むけど、やっぱり直らないから仕方ない。私が受け入れている相当ダメな部分と思っている。もう一つはじっと座って話を聞くことが苦手なこと。落ち着かなくてどこか動かすようにしたり、好きな友達や心許せる相手が横にいないと、人の話を聞くという行為に我慢ができずに、すぐに不安になって落ち着かなくなる。
 ただ最近の発見がちょっと自分で衝撃を受けたのだ。ちょっと前に気付いたことは、意外と行き当たりばったりのように見えて、計画通り物事が運ばないとストレスを感じるところ。自分で思っていたより融通がきかない。
 それだけではない一番最近に気付いたことは。
 音である。本当に大変な人は、あらゆる雑音が耳に入り、大切な話が聞けないと言う。私はそんなにまでは敏感ではないのだが、音に過敏なことには自覚があり、それがちょっとだけ多分ストレスになっている。
 最近、いやだなと思う音に気付き、そして音に関するエピソードが昔から多いことに気づいたのだ。
 幼い頃は大きな音がとても苦手。それはどういう風に苦手かと言えば、「怖い」のだ。
 まず風の音。電線をうならす音が怖くて仕方なくて、その音で眠れないくらいだった。雷もそう。稲光がして雷が鳴り始めると、ずっと母の太ももにしがみついていた。音が怖くて、音がもうすぐ鳴るぞと思うと、幼少期なのに動悸がすごかった。ただの怖がりと思われていたかもしれないが、私にとってはとにかくその音が怖かったのだ。