自分が中年、昔で言う初老という年頃に入って、自分が少しずつ老いとかこの先の生涯について考える機会がすっかり増えたというか、段々日常化しつつあるが、そのことと同時に、知り合いや親戚のことを聞いたり見たりして、強く感じたことがあるので書いていきたい。でも、どなたか特定されたり、誰それがと書くと周りで不快な思いをする人が必ず出てくる内容なので、血がつながっていようと、ごく近い関係であろうと、友人の親の事であろうと、すべて「知人」として書いていこうと思う。私にしたらよそよそしい人も中にはいるのだが、そこは見逃していただきたい。
 一番最近、目にした高齢の人の認知症である。これが私には結構ショックであった。最初から話には聞いていたものの、私の知っている認知症の人とはまた違った雰囲気だったからである。私がそれまで見知っていたのは、徘徊しようとしたり、トイレがうまくいかなかったり、誰が誰だかわからなかったり、自分がどこに住んでいるのかわからなかったり、記憶がめちゃくちゃであった。でも話すと、会話として通じている感じがあった。目も合ったし、疲れてはいても目に力はあった。でも今回の人は、徘徊もなく、なんとなく人のことを認識している感じはあるのに、目に力がない。身体にも力が入らない。でも一生懸命考えようとしていることがわかり、切なくなった。「認知症」と言っても、一人一人、違うんだということがわかった。認知症じゃなくても、ベッドに縛られて静かに涙を流していた人のことも思い出した。私はその場を見たわけじゃなく、話に聞いただけなのだが。その人は結婚することもなく、幼い時以外は母親から離れることもなく、一生を過ごしたと聞いている。今回目にした人とその人が少し重なった。彼らは幸せな瞬間を知っていただろうか。この世に生きて良かったと思えたのだろうか。他に、やはり認知症がひどくて、自分が子供を虐待したことさえ忘れ、舌のコントロールすらままならない人がいる。虐待された子供は何とも複雑な思いを抱きながら、それでも定期的に看に行っているようである。
 そういった人たちを見ていて、自分がどうなるかなんてわからないなとつくづく思った。夫がそんな風になったら私は泣いて暮らすだろう。私も一緒に認知症になったら、息子が大変である。そうならない保証はない。そうなった時に息子にどうしてほしいかを話しておかなければならないし、どのように対処すれば良いのか、自分の周りの人たちのことを見せておかなければいけないと思う。
 しかし、夫にも言ったことがあるが、このようになるのは、できるだけ遅らせなければいけないとも思う。知ったこっちゃないというわけにはいかないのだ。多くの人に迷惑をかける。配偶者、子供、つながりがあれば親戚、そして世話をする方々。一生懸命世話をして下さる人たちには本当に頭が下がる。できるだけ長く多くの人々を苦しませたり悲しませたりしないよう、健康で、少なくとも頭を健康にして、悲しみや苦しみはあっても、目の前の人に感謝の気持ちを言葉で伝える身でありたいと思う。とはいっても、人の世話にならずに寿命をまっとうできる可能性は少ないだろうから、きっと人の世話になる。その時期はギリギリまで延ばし、皆に負担のないよう短くしたい。