子供の心に何か問題が生じた時、子供側の世界に、直接的な気持ちの要因はある。大抵は一つではなく、あらゆることが絡み合っている。思春期だと、繊細で感じやすく、また表現豊かに育つと、自分の気持ちをあらゆる言葉で表現してくれる。その一つ一つをどうしたら良いかを最初は考えていた。言葉に出してみたりもした。でも、そういうことを言ってほしいんじゃないんだよなということはわかっていた。できるだけ感情を共有し、受け止めていれば良いのだろうということ。そして、それだけでは私の気持ちはまったく落ち着かないことも。それで子供の心の問題に沿った本を探して色々読んでみた。
 そして、ある本で私は子供を褒める大切さを実感した。
 「一日三か所は考えて褒めよう」ということ。……息子の良い所。そんなのわかっている。と思っていた。ところが、いざ言おうとすると、思い浮かばない。サラリと言おうとしても、性格的な漠然とした良いところって、なんだか大げさで唐突なのだ。優しいとか、好奇心が旺盛だとか、そんなところも良いのだが、日常生活で「こんなことしてくれた」「そういう風に言ってくれる」ということを、私はそれほど口にしたことがない。わざわざ口に出して褒めるというのは、言おうとするとやたらに照れた。でもこれが息子の心に少しでも響くならと頑張った。最初は「ネタがなくなった時のために、こういうことを言おう」と幾つか事前に考えて準備していた。でも慣れてくると、すぐに思いつくようになった。今日は何も言わなかったかもしれないと思って、寝る前に慌てて三つ言うこともあった。
 そういうことを言うようになって気づいたことは、息子に褒める部分はたくさんあるのだということだった。毎日小言を言い過ぎていたことにも気づいた。小言を言い過ぎて、ずっとイライラしていた気がする。でもそんな時こそ、その中から息子の良い部分を探した。そうすると、マイナス部分を流せることも出てきた。さらに、こんなに褒めるところがあるのだということは、私にとっての自信にもつながった。息子のことも誇りに思える。
 こうやって多くの発見があったのだが、一番の自分に対しての発見は、息子に対して「アナタはできていない」メッセージをものすごく発していたということである。これはショックであった。
 子供に対して、お礼を言ったり謝ったりすることに抵抗のある人がいる。親の立場、プライドや照れとかが邪魔をするのだろうが、そんな下らないことはない。親は、子供の「ボス」だけど、「人間として上」なんかではない。責任は絶対的にあるし、時には引っ張っていく、物理的にも気持ちも守る、注意を向ける、気を付けて教えなくてはいけないことは山のようにあるけれど、そういう作業の中で自分も成長させてもらっている。自分が気づかないこと、自分にはないところ、子供にはたくさんあるし、子供は自分の考えも意見もちゃんと持っている。言うことを聞いてもらわなければいけないところだけは毅然と立ち向かえば良いのであって、基本的に人として尊重されるべき存在である。子供の精神の成長を思いやれば、自分の照れや立場なんてどうってことない。「表現」なのだから存分にすれば良いと思う。でなければ子供もちゃんと言葉で気持ちを表現できる子にならない。そんな思いは強かったのだけど、まさか自分が褒めていなかっただなんて。