数字を頭の中で唱える時に、その人の慣れ親しんでいる言語が表れると聞いたことがある。私は実は日本語も英語も両方出てくる。多分「セサミストリート」で耳が腐るほど、数字を数え上げるシーンを見てきたからだと思う。だから「必ず日本語」ってこともなければ「絶対英語」ってこともない。気が付いたら英語で数えていることもあるし、日本語で数えていることもある。そこに法則性は見いだせない。
 帰国子女だと自覚し、気持ちが弾けた私は、もう少し色々自分のそういった部分について語ろうという気持ちを強くした。
ずっと遠慮していた。子供の頃は皆と違う自分のそういうところを「恥ずかしい部分」だと思い込んでいたし、周りが皆同じような物を持ち、同じような絵を描き、同じような意見なので怖くなり、段々と自分を抑えるようにしていった。
 中学高校の頃には、周りの先生や友達たちが良く環境に恵まれたため、少しずつ自分を取り戻しつつあったが、「自分」を、どこまでどうやって出すのか「良い塩梅」がわからなくなっていた。でもずっと議論好きではあった。ただこれも、よく「力説してる」と笑われてハッとすることがあった。これはおかしな程度なのかなと思い、やはりサッと自制するようになった。もうあの恐怖を味わいたくなかった。だから自分が帰国子女であることはできるだけ話題にも態度にも出さないようにしていた。だけど、議論することはある程度コントロールできても、本当は好きだったし、人との違いについても意識的であったと思う。色々思いめぐらせ続けてはいた。だからこそ思考力や想像力、観察力は育ったと思っている。無邪気ではない私を見るのは、親にとっては残念だったり心配だったりかもしれないけど、私は必然的にこのようになり、こういう自分を誇りに思っている。思うことにしている。誰も褒めてくれないので。人とそういう部分で溶け込めないところを「良くないところ」だと思い、なるべく抑えこんでいた。そうやって中学高校の頃は何とかうまくいったが、気が付くとちゃんと自己主張できる日本人よりずっと表現が下手になっていた。
 大学生の頃にはおとなしいとさんざん言われて、ますます自己表現がわからなくなっていった。家庭でもそうである。人とうまくやっていけない私は認められないと思い、かなり家の中でおとなしくして気を使っていた。親の気に入るように振る舞わなくてはと思い、でも年頃の私にはうまくできないので、割とふてくされていた。なるべくふてくされていたようには見えないよう、とにかく静かにしていた。何を話せば気に入ってくれるのか外でも家庭でもそれを考えて暮らしていたと思う。