日本人の英語に対するコンプレックスを少し書いたが(そんなもの持っていない人いると思うけど)、私が書きたいのは、そういった気持ちを置いておいて、皆もっと堂々とすれば良いのにということと、そのせいで帰国子女も堂々とできないことである。
 国際的な学校で過ごした帰国子女は、堂々と「ペラペラです」と笑って見せてくれる。なんて気持ち良い!私はペラペラからは程遠い。帰国子女と言っても、それぞれ違う。
 幼い頃から住んでいる人は発音が良い。ある程度文化も染みついたものがある。中学生辺りまでいると理想的で、英語を忘れない。しかし私は7歳で帰国したので忘れている。覚えているのは、幼児期に覚えるような言い回しや単語。テレビや映画、学校で見る文化や教育、英語の言い回し、そして少しの聴き取り。
 高校生以降で行った人は、発音はイマイチでも、言語としてしっかりと身につけている。大学以降で留学した人たちは、かなり努力をしている。きちんと日本人らしさも土台となっているので、アイデンティティーも揺るがない。文化は後天的なものとして少々努力して身につける。それがしっくりくる人もいれば、急にそのように振る舞う人もいて、やっぱり後から身につけた感じはある。しっくりくる人はラッキーな人であろう。
 そして一般的な日本人の「帰国子女」に対する感じ方は、後天的なものとして努力して身につけた人たちに対する印象があるようだ。何でもズケズケ言えて、堂々としており、英語のできない人をどこか下に見ているような。だからお互いに壁や溝が生じて、理解し合おうなんて気持ちにならない。帰国子女と言うとひとくくりにされて考えられるのは本当にごめんなのだ。
 私は文化や教育の一面、まあまあの発音、リズムや聴き取りが少し身に染みていることを自分で認め自覚しながらも、「発音はできるよ」ということは限られた人にしか言ってこなかった。何故なら「そこが」できるよ、ということは「全部」できるよ、ペラペラだよと勘違いされるし壁を作られるからだ。
 息子が一生懸命英語を勉強し、あれこれ聞いてくる今、私はつくづく文法を理解していないと思う。いやになるほど。悲しくなるくらいだ。でも発音だけは教えてあげられる。そんな時に、私は「これだけが」できると言って何が悪いのだろう。何故遠慮し、恐縮し、謙遜し尽さないと周りに受け入れられないのだろう。
 こんな環境は自分を惨めにするばかりでうんざりなのだ。
 私は洋楽が歌いたい。歌っていると嬉しい。飢餓感が満たされていく。だけど、普段から英語漬けになりたいわけでもなければ、やっぱり話せるわけでもない。その辺りの微妙な具合を簡単には説明できないし、人にはわかってもらえない。
 歌いながら「私は帰国子女なのだ」と強く感じ、すごく気持ち良く歌えた。
 ちなみに、童謡も英語の方がしっくりくるものがあります。でも耳で覚えたのでなんか間違っているところも多い。そんな単語ないよなとか、この歌詞であってるのか?だらけ。意味もよくわからない。ただそういった歌のことばを初めて日本語ヴァージョンで聴いた時の「そりゃないわあ」という気持ちも覚えています。