一人カラオケをしてみて、洋楽を歌いながら、何かが自分の頭の中ではじけた。
 私はペラペラなんかじゃない。ペラペラじゃないからと堂々ともできない。歌にしても全部を初見でも歌えない。単語は幼児期に知ったもの+αくらいしかわからない。言い回しもすごくよく知っているわけでもなければ、かなりを聴きとれるわけでもない。でも英語の発音だけはアメリカ人よりちょっと下手なくらいで、日本人の中ではだいぶ上手な方だ。舌もよく回るし、英語のリズムも染みついている。上手なフリをしている日本人の英語発音も見抜ける。……聞き抜ける??
 そんなわけで、英語を発音することにすごく馴染みがあって英語を発音することがとても好き。そして英語の歌詞が好きだ。(しつこいけど、私は日本語もすごく好きです。特に単語の美しさやバラエティーの多さ、そしてニュアンスの細やかさなど)私は英語を発音したいのだ!!時々舌や唇が、英語を発音することに対し、飢餓感を覚えることを自覚していたはずだ。でも無感情を務め、ずっと抑えていた。
 ここでも何度も書いてきたが、どうして帰国子女はこんなに肩身狭く生きていなくてはいけないのだろう。
 まずは、日本人の英語に対するコンプレックスがある。中学の時からバッチリ英語の文法を習い、頭で知り、単語も覚えているのに、一歩踏み出す勇気がないために話せない人が多い。それは文化の違いに恐縮しちゃったり、日本人の気質で遠慮しちゃったりするからである。そして私もそれをしっかり身につけてしまった。アメリカ人からしたら必要のない恐縮や強い遠慮が、日本文化で生きていく上では必要なものとなる。そして私は後者を後天的に身につけて窮屈さを覚えている日本人なのだ。殻を破る勇気も出ない。
 でも私は日本文化の美しさや控えめさ、遠慮深さをそれはそれでとても素敵だと思っているので、殻を破るには勇気だけでなく、「素敵だな」と思う気持ちもある程度排除しなくてはいけないことを知っている。そしてそれが私にはできないのだ。だから肩身狭く生きていることを自ら課してしているようなものでもあり、でも素敵だと思っているのだからそれも覚悟の上なのだ。
 そういったわけで、日本人も英語を話せる人たちに対してコンプレックスを抱いているように思う。さらには発音である。色々なところで何度か書いたことがあるが、日本人のアジア訛りの英語を、日本人はもっと誇らしく思って堂々としていたら良い。ある程度伝われば良いのだ。私など発音が良くたって、文法も単語も、ちゃんと勉強した日本人には全然かなわない。しかも私はその知識不足から自信がなく、声が小さくなっている。
 夫や息子が、私に正しい発音を聞いてくることがあり、又、話している単語が別の単語に聞こえる時は、何度も直させてしまう。申し訳ないのだが、どうしてもそれは「この単語に聞こえるから」とカタカナ英語を正す。でも内心、まあ良いんだよ本当は、と思っている。要は伝われば良いのだ。良い発音じゃなくたって良い。それぞれの国のなまりがある。英語にそれが表れていたって伝われば良いのだから。夫はだから私より話せるし、息子もそのうち私を超えそうである。