私にとって、家族とのコミュニケーションは、考えていることを伝え合うことである。これをおろそかにしたくない気持ちと、楽しんでいる気持ちと両方。
 無意識に、自分の子供時代と、自分の子供の現在とを重ね合わす親は多い。
 自分を含めていやになるほどたくさんいる。意識していないと、私も含めほとんどの人がそうなってしまう。意識していたって、意識している部分だけ気を付けているだけで、ふと気が付くと色々な場面でそうやって考えてしまう。「私の当時はこうだったなあ」とか「私はこうやったなあ」とかいう思い出話という意味ではない。嫌な思い出の方である。
 つまり、自分はこんなに辛い思いをしたのだから、子供もして当然。自分はこんなに苦労したのだから、子供もそうして当然。といった内容のことである。
 これが実に厄介である。
 何度も「親の‘期待’が子供をダメにする」と書いてきたが、今書いていることも、子供をダメにする。
 子供が自分と同じような苦労をした時に胸を痛めることはある。自分と同じような経験をし、辛い思いをしている。事が起きてからそう思うこともあるし、事前に忠告したり警告したり(それでさえ本当はあまり良いことではないのだろうが)することもある。でもそうじゃなく、自分が苦労して辛い思いをしてきたことを、子供も同じように経験して当然だと思っている人がいるということである。無意識なので厄介だ。
 面白いことに、だいたいが「子供が自分のその頃と同じ年になった時期」くらいに呼び覚まされるらしい。だから自分が「苦労した」と意識した年齢に自分の子供がさしかかると急に厳しくなったりする。自分はこのくらいのことできて当然だったから。自分はこのことですごく叱られたから。だから子供に対し、そのくらいできろ、このくらい叱られて良いだろうと思っている。自分はできたのに、何故自分の子供はできないのかと、納得できないらしい。
 そこに子供自身の個性を認めていない。
 何度でも書く。「子供が、自分が泣いたのと同じ場面で泣いたからと言って、自分と同じ感情で泣いているわけではない。」
 親と自分が違うように、自分も親と違うし、子供もまた自分と違うのだ。顔立ち、容姿、声、仕草、癖、体質、趣味嗜好、考え方の傾向、どんなに似ていても、感じ方や気持ちがまったく一緒ではない。自分が、自分の親と同じように振る舞うことで、自分の子供の心がどう反応するかなんて、決してわからないのだ。これは、父親側にも言えることである。
 特に以前の男の子は「男の子だから」泣いてはダメとか、「男の子だから」これくらいできて当然とか言われて育った。もちろん女の子も「女の子だから」これをしちゃだめとか「女の子だから」これくらいできていないとダメとか言われた。しかし、何ができるとかできないとかいった内容のことは、どの程度が脳に生まれた時から刻まれているものか、後天的に身に着けるものか、段々わかってきている。それを自分の経験と先入観や偏見だけで、振り分けてはいけない。