コミュニケーションがどれほど必要かは、個人個人によって厳密にはよくわからないのだが、私にとっては、決して欠かしてはいけないものだと感じている。
 私が親となった家庭では、面倒でも意識的に言葉を交わしたい。そういう家庭にしたい。
 他に些細な例を挙げるなら、挨拶一つをとっても。家庭によっては、「おはよう」とか「ただいま」とか挨拶をしないところもあると聞いたことがある。それはそこの家庭のルールなので、私には何とも言えないが、我が家でそれを抜くのは私がいやだ。
 アメリカでは、部屋に入るたびに‘Hi’と声を掛け合うことも多い。そんなにいちいち心をこめて挨拶しているわけでない。‘I love you’もしょっちゅう言い合っているが、面倒くさそうに「ハイハイ」というニュアンスで繰り返している子供もいて、これまたいちいち心をこめているわけではない。そんなに心をこめなくて良いのかと聞かれたら、私は「構わない」と言おう。ただ言葉が交わされるだけで良いのだ。挨拶ってそういう程度のもの。だけど、それがなくなると、なんてよそよそしいつまらない関係なのかと感じる。心のこもっていない挨拶でも、それは「相手がいることを認識している」合図だと思っている。同じ部屋で、違う作業をそれぞれにすることはまったく構わないが、存在に気づいているよ、いることをわかっているよっていう意思表示は大事だと思うのだ。
 息子のことについて言えば、言葉が話せない時期から自己主張が強く、何かといちいちグズグズと泣いて喚いた。だから大人にとって些細などうでも良いことはなるべく自分で選択させた。本人に納得してもらうためである。それでも納得しなかったとしたら、「自分で決めたことでしょ」とこちらも毅然としていることができたからである。
 今や年頃の息子にとっては、ちょっとうるさくなってしまうけど、忠告交じりに「こうなってしまうけど良いのね」と確認する。余計なお世話で私の良くないところなのかもしれない。息子がそれでも良いと言うなら、こちら側が「やめておいた方が良いのに」と思う選択でも、そこはこらえて息子の選択を尊重することにする。もちろん大きな問題ならこちらにも責任があって放り出すことはできないが、日常の些細なことであれば、息子に失敗の機会を与えたい。失敗しないかもしれないし。この一連の作業をうっとうしがる大人は山のようにいる。ほとんどの大人がそうだと思う。私も面倒くさいが、うっとうしいほどではない。自分が忠告している側だからだろうが、面倒くさくも「これもコミュニケーション」と、多少面白がっているところもある。何度も書くがふざけているわけではない。そのうち笑ってしまうこともあるけど、こういうやり取りがないテキパキとした関係って、家庭内に必要?……「質問」「返答」以上!って。
 うだうだ言い合うことこそが親しい仲の面白いところだと私は思う。