ナンシー関展を観に行って、言葉を伝えることについて改めて考えてみた。
 何年も前のことだが、スクールカウンセラーと話していた時に、夫や息子に‘通じていない感じ’があることを相談したことがある。言っても伝わっていない、いや、言葉そのものは伝わっていても、「あっわかってくれた」と、こちらがストンと腑に落ちるような「気が済んだ」感じがしないのだ。そうすると挫折してしまい、もう良いやという気分になる。もう良いやと思えている間は良いのだが、しばらく月日が経つと、また同じような問題が起こり、同じような気持ちになる。もう良いやってまた思えたら良いのだが、何度かあると「やっぱり気が済まない」と思ってしまう自分がいる。そういう風にあきらめて良いと思える相手ではないのだ。伝えたいことがあるのだ。
 すると、スクールカウンセラーは言った。ここにも一度くらいは書いたことがあるかもしれないが、「伝えたい相手であって、伝わっていないなーと思うなら、伝え方を変えてみるんですよ」ということである。当たり前のことに思えるのかもしれないが、これはとても工夫と根気が必要な、難しい作業なのである。でも伝えたい相手であるから仕方がない。それに私も納得がいかないことは先に進みたくない頑固なところがある。伝わっていないと思うと、それ以降、まあ良いやという内容でなければ、伝え方を変えることにした。それは言葉の表現の工夫だけでなく、シチュエーションだったり、態度だったり、考えなければいけない。正直面倒くさい。面倒くささが勝ってしまって、もう良いやと流していることも幾つもある。それも仕方のないこと。でもどうしても伝えたいなら、一度ではなく、何度も言ってみる。違う場面で。違う態度で。違う言葉で。違う表現で。
 又、人は喧嘩と思いかねないようなやり取りも、私はコミュニケーションだと思って、それを楽しむところがある。別にふざけているわけではない。議論て、ケンカではない。それについて相手がどういう考えか知る、自分の意見を聞いてもらう、それぞれの主張があってああそうなんだとお互いのことを知ることって面白いのだ。
 些細なことだけど、私が住んでいる所は、車がないと出勤も買い物もできないので、夫と一台の車を使い回している。夫の出勤時間や帰宅時間を聞いたり、私の買い物時間を伝えたり、車を使う時間を毎日聞き合う。これがかなり面倒くさい。夫も毎日聞かれて嫌だと思う日もあるだろう。でも、これがなかったらどうだろう。各自行動。各自で家を出て各自帰宅。お互いが何やっているかなんて知ったことではない。それで良いのかもしれないが、お互いが忙しくなってくると、コミュニケーションは確実に減るだろう。それでなくても、夫は好きな時間に勝手に寝て好きな時間に起きる。夜中の行動も勝手である。仕事柄仕方ないにしても、決まった時間に寝てちゃんとずっと寝続け、決まった時間に起きる、という生活のリズムがない夫は、ともすれば私や子供の存在が薄くなりがちなのだ。切り替えも難しい。これで各自行動なんてことになったら、もうお互いがお互いを構わなくなると思うのだ。それは私も寂しいし、息子が特に幼い頃はコミュニケーション不足になっていくと思う。ちょっと面倒くさい、うっとうしい間柄も必要だと私は思っている。