いまだに、帰国子女であることを意識せざるを得ない場面がある。又、人の意見を聞いて、帰国子女「だから」こう思うのだろうという風に考えることを受け入れてもいる。
 人と話す時に、帰国子女だということを明かすと、もう慣れているのは「英語が話せるんですね〜」「英語ベラベラでしょう?」ということを言われることだ。その気持ちには羨望や、自慢しないでよという気持ちが混じることがある。でも私はその後の努力をそれほどしていないので、それほど話せない。相手が何を言っているのかわかることは多いが、それは努力の結果ではなくて、幼い頃に勝手に培われたものなのだ。いくらこれを説明しても「謙遜だ」とか思われて信じてもらえないので、説明も面倒くさくなっている。
 一つ努力したことがあるとしたら、英会話学校に行って、欧米人に対する苦手意識を払しょくしたことかなあ。外国人が、日本人と文化が違うという認識は多分、外国に住んだことのない日本人よりはものすごく当たり前に身についていると感じている。それはそういう外国人や、外国人に慣れていない日本人と喋っていてすぐに感じる。便利であり、自分で好きな部分である。でもアメリカに住んでいた幼い時には、白人と「面と向かう」のがあまり得意ではなかった。物心つかなかった頃から「怖い」と言っていたらしいが、物心ついてからも、アジア人と仲が良くはなっても白人とは距離を置いていた。中には接しやすい子もいたけど、大体が何を考えているのか、表情だけではよくわからなかった。
大きくなってからも、いわゆる社交辞令がとても強いというか、日常的に社交辞令を使いすぎて、日本人の言う「本音と建て前」というようなことではなく、挨拶代りに「ウチに遊びにおいで」とか「キレイですね」みたいなことを平気で言うから、信用できないのだ。決してそれが本心ではないことを学習していったし。あとは差別的な意識ですね。やっぱり優位に立っているという感じが拭えない人もたくさんいるので。だから私はものすごく警戒し過ぎて、恐縮にまで至っていた。私の良くない思考の癖なのだ。
 でも、英会話教室に通って、そういう加減が少しずつわかり、どの程度本心か、どの程度の加減で話せばいいのかをわかっていった。丁度そういう社会性のようなものが身に着くお年頃であったことも幸いだったのかもしれない。
 話が長くなってしまったが、私が努力して身に着けたということがあるなら、そのくらいだろう。
 英語に関しては、私は怠けきっていた。中学二年辺りまでに習う単語程度は自然に知っていたので、勉強する必要がなかったわけです。授業の速度もすごくゆっくりであまりに当たり前のことを授業でやってもつまらなかったんですね。でも、いつもと様子が違うぞと感じたのが中三の二学期辺り。試験の成績が落ち始めた。文法も勉強していなかったので、改めて「英文法」と言われると、どう勉強したら良いのかわからず、三学期にはさっぱり。テストの問題の意味もわからず、単語も追いつかず、文法もわからない。高校生の英語に至っては、チンプンカンプンで、一生懸命単語や文を覚えようとしたが、頭に入ってこなくて、いつも同じところを繰り返してやる羽目になり、いやになっていった。
 私は帰国子女とは思えない成績に成り下がっていったのである。