子供が何をどんな風に感じ、どうしたいかは、それが親にとって都合が悪かろうと、間違っているのではと感じようと、それが子供の個性であることをまず認めなければいけない。
 何故そう思うのか、その気持ちはどこから来るものなのか、その気持ちは辛いものではないのか。そういったことを話し合い、親が感じているのとは違うことを親はつくづく感じなければいけない。それがその子供自身の個性だからである。自分とは違う、信じられないと思うだろう。でも、親子でもそれが当たり前なのである。自分の子で、どんなに他の部分が似ていても、感じ方、考え方は違うのだ。
 そういった面だけで言えば、私は子供に恵まれていたと思う。我が子は、生まれた直後から、まったく思い通りにならなかった。いわゆる「やりやすい子」でもなかったし、激しく泣いたり反抗したりして、私に恥をかかせたりした。
 でも、それによって、子供って自分の思うように動かないし、自分と同じには感じないのだと思い知った。恥ずかしいという感情は大人の都合だと思い、我慢することもあれば、どうしても感情をぶつけることもあった。子供にとっては威圧的だったかもしれないが、子供が泣き叫ぶことで、この子は私の思う通りにならないと知った。いつも後で話し合い、子供の考えや意見を聞き、気持ちを傷つけたことを謝った。それが今後、どのように生かされるのか、果たして息子に有効だったのかはわからない。それに、自分が気づいていないところで子供は傷いたり、反抗心を感じていたりするかもしれない。子育てなんか、常に自信がないと言って良い。これで良かったかな、とふと思い返したり、これで良いのだろうかと不安になったり、色々気づいていないことあるんだろうと思ってみたり。
 ただ、ある本で「親が悲しいと思う場面で子供が泣いていても、子供は悲しいから泣いているわけではないかもしれないのです」という記述があったことが、とても印象的である。そのくらい親子でも違うのだと。同じ場面で泣いたからと言って、同じ気持ちではないんですよというその文は、私のそれまでの気持ちをもっと強いものにした。「親子でも感じ方は違う」。肝に銘じなければならないと。
 塾や、インターナショナルスクールの国語で教える時、皆の感じることや印象を引き出す時に、よく何かの物体を皆の前にかかげて「これは四角に見える?」と聞いたものだった。生徒それぞれの席の位置、つまり角度によっては、丸く見えたり、正方形に見えたり長方形に見えたり、キレイだったり汚かったりする。その場に何か用意していなければ、消しゴムでもよく代用した。座っている場所によっても見え方は違う。同じ物でもそれだけ印象は違うんだよ。それを言葉にしてごらんと。文章を書く時の第一歩でもあったのだが、私が生きる上での信念でもある。その信念を子供に押し付けてはいけないのだろうが、物事には色々な見方があることや色々な意見を持つ人がいることを知っていてほしいと心底思う。人は本来、多様なのだ。そして、自分もそのことを常に意識して、子供の考えや意見、気持ちを聞き、感情を受け止めたいと思う。受け止めたいという思いは、あくまでも「受け止める」であって、叶えるとは別問題ということも含めて。