このことに直接関係することではないが、私は被害者の顔が、テレビで何度も流れることに違和感を抱く。加害者の顔は絶対に流されないのに。少年法だか、法律があるのだろうが、じゃあ被害者の顔は流されて良いのか。ニュースを読む時に流す必要はあるのか。
 今時、ネットがあって、すぐ流されちゃうので、削除しても削除してもどこからか流れてしまうものだが、そこには「見ないで良い」と思う人は見ないで良い選択肢がある。テレビはニュースを見ていたら、どうしてもその映像や写真が流れる。被害者が生きていた証として、忘れないでほしいと、親が願っているとしたら構わないのかもしれないが、少なくとも被害があった直後に、何度も何度も人目にさらされたいと思うだろうか?
 その映像を見た時に、親御さんの心情を思って、胸が詰まるようだった。きっとテレビなど観てはいないのかもしれないが、流されているのだと知ったら嫌悪感を覚えるだろう。何故我が子の顔が、こんな形で世に知られなくてはいけないのかと。
 ちょっと話がそれたが、家に何冊かある少年犯罪に関する本を手に取って読み返した。その中で、同じようなケースだなと思うタイプの犯罪は繰り返されている。もちろんそれぞれのケースは違うのだが、あの犯罪でも加害者は同じようなセリフを言っていたな、と思うようなこと。あのケースとこのケースは犯罪の内容は違っても、子供の心境は似ていたのだと思うこと。色々と共通点は見つかるのだが、逮捕された直後がどんな態度であれ、一見理解できないと思う犯罪でも、いわゆる「普通の子」が起こしたと思われる犯罪の家庭はどこか似ているのだ。
 それは、子供の感情が親に対して表現できていない、という点である。
 思春期に入って、感情を爆発させているにしてもである。
 どういうことかと言えば、やはり幼い頃からの話である。その子たちは、感情を表現するチャンスを奪われてきたということなのだ。だから親に爆発させている時、本当の気持ちを爆発させていれば良いのかもしれないが、大抵は何かの裏返しであったり、どう表現して良いかわからない結果だったりする。
 無表情だったり、(犯罪の対象になった相手が)誰でも良いと言ったりするのは、自分が誰でもないとされている場合が多いということだそうだ。自分が誰でもないというのは、親にとって「自分」を認めてもらっていないということである。過保護に育ててもらっているような場合でもやはり感情を受け止めてもらえないということで同じである。
 以前書いたように、過保護、過干渉が良いわけがないが、どうも多くの親は「過保護」「過干渉」の意味をはき違えている。たくさん甘えてもらい、些細なことでも心配して、子供と関わり、口出しすることは、過保護や過干渉ではない。思い通りに育てようと子供の意志を聞かずにキツく言う通りに従わせてあれこれ構いすぎる、子供がボスになり、甘やかし、口では厳しいことを言いながら結局言うことを聞いてあげ、先回りして子供が不自由しないよう、いじめられないようあれこれと手を尽くすことを過保護、過干渉と言う。厳し過ぎる親も実は過保護で過干渉と言われるのは、そのせいである。その逆の「放置」も良くない結果を生む。