『子どもが壊れる家』(草薙厚子著 文芸春秋社)を読んで、過干渉のことが書いてあった。過干渉は、私は甘やかしと同じ意味だと捉える。ただ、説明は難しく、自分の言葉で考えてきて、それはそれで良いのだが、この本では具体例がとてもわかりやすく書いてあったので、改めて書いている。
 周りのレベルに追い付け追い越せとばかりに子供に一生懸命になることも過干渉であるということであった。厳しくしているにしても、それは過干渉になると。つまり、子供が失敗したり、そのためにあらゆることを自分で乗り越えたり要領よくこなせるようになったりする機会を奪う。なので、人並みになるよう、親が先回りして必死になるのは筋が違うということだ。できる、できないは、個人差がある。大人になるまでにできるようになる、あらゆることが、その子その子によってペースが違う。それを見極めるのが親の役目ではないだろうか。
 そして、大事な記述だ。
 過干渉の反対は、決して放置ではないということである。
 放置は、ゲームやインターネットなど、子供がやっていることを把握しないでいるということであった。把握していても、それが大人が見て目を覆いたくなるようなものであれば、放置せず、話し合うなりして制限を設けるべきであるということ。ゲームやネットはそういったことに代表されると書いてあるが、私の解釈はつまり、育児放棄の延長のようなもので、そういったことで子供を大人しくさせておく親の怠慢であるということである。もちろん、時にはそうやって一人の時間もあって良いと私は個人的に思っている。自分の世界に入り込みネットを使うことは、今の時代、避けられないと思っている。できるだけ大人になってからと書いてあるが、私が夫と話し合い、息子と話しているルールは、子供の今、携帯、スマートフォンは必要ないということである。中学や高校に入っても、自分が必要でなかったように、特に必要はない。ただ、公衆電話が周りになくなってしまっているので、出かける時に、キッズ携帯を持たせることはあるだろう。友達がそんなことで仲間外れにするようなら、しょせんその程度の友達なのだ。「親が厳しいから、頑固だから、融通きかないから、普段は持たせてもらえない」。それでいいではないかと思う。あと、携帯型のゲームは買わない。テレビやパソコンなど、いつでも親が見える状況でゲームをするのは構わないが、一人の世界にこもってゲームはさせない。息子は夫のスマートフォンでゲームをすることがあるが、夫がダウンロードしているゲームのみである。皆で画面が見えると、それについてあれこれと話せる。時には一緒にゲームをして一喜一憂する。そうやって目が届くと、ゲームの内容も親はチェックできる。
 留守の間や知らないうちに、子供がどこかのサイトに勝手に行き、目の届かないところで何かを見ることはあるだろう。友達同士でも。だけど、それは、昔から雑誌や兄弟の上の子からの情報だったり、いつの時代でもある。それこそそんな子供同士の世界までは、親は口出しもできないし、はりついているわけにもいかない。大事なことは、親は「アナタに関心がありますよ」ということを、常に示しておくことなのだ。