過干渉と言えば、以前に目の前で見た光景が思い浮かぶ。
 外で食事をしていると、少し離れた席に座った親子。子供は小学校低学年くらいだろうか。母親が熱心に、その子の頼んだ麺類のネギをお箸で取っていた。そして「○○君、ネギ嫌いだもんね。食べないでしょ?」とか言っている。その男の子は、眉間にしわを寄せてただうなずいていた。私がその子の気持ちがどんなものかは知り得ないが、もしかしたら、その子は「そんなにしなくて良いのに」と思っていたのではと思うくらい、難しい顔をして黙ってうなずいていた。でも親がそうするから言い出せないでいるような。
 我が息子が好き嫌い少なくて助かっている部分はおおいにある。だが、私が幼い頃、とても好き嫌いが多かったので、自分の子に好き嫌いがあっても、そんなものだろうと思っていた。でももし好き嫌いがあったとしても、どう対処するかは想像してみただけで違う。私自身、嫌いな物を最初から取り分けるなんてこと、されたことがない。それを不満だとか試練だとか思ったこともない。あまりに自然なことであった。皿に自分の嫌いな物が乗っているということ。この玉ねぎがなければもっとこの料理は美味しいのに。ネギが散っていて残念だなあ。少しでも付いていたら匂いも移って嫌なものだが、残したり、オエッとえづきながら食べてみたり、捨てて怒られたり、その場その場で対応したものだった。息子に好き嫌いが多くても、私はそんな風に取り分けないだろう。「いやなら、置いておけば?」ってなものだ。そのうちいつか、食べられる日がやってくることもある。そして物によっては「美味しい!」と思える日がやってくる。そのチャンスを奪ってどうする。いや、チャンスとまではいかなくてもだ。そんな小さなこと、子供が対応できなくてどうする。子育ては自分の思い通りに育てるのではなく、子供が自分の足で生きていけるようにすることである。『子どもが壊れる家』(草薙厚子著 文芸春秋社)では、子供をおもちゃやペット、人形のように扱うなといった内容のことが書いてあった。本当にその通りだ。
 子供が自分の気持ちや感情を言葉で話せなくなってきている、と、作者は危機感を抱いている。私の印象では、昔からそういう傾向にあり、特に帰国子女として、日本人はそういったことをなかなか話したがらず、感情を出さない、主張しない、議論しないということがとても不安であった。でもそういうことでなく、今は肝心な場面でも話さなくなってきているらしい。その「話さない」が、「話せない」「自分でよくわからない」となっているところが最近の子供たちの傾向らしい。
 子供が自分で決断し、大人になってからも自分で物事を決め、言葉で説明して表現し、それに対して責任を持つ。どうしてそう思ったの?これに対してどういう気持ちになった?どんなことが印象に残っている?など、何度も聞いてきた。自分の意見も言う。そして、「どうだった?」という答えにくい質問はしない。
 そういうことが表現できるようになるには、幼い頃、簡単なことから選択をさせることが大事らしい。私の性格から、納得がいかないと次に進めなくてモヤモヤとしてしまうので、何故そのようにするのか説明してほしいということを要求してきたのはもしかしたら悪いことではなかったのかもしれない。