昔から、私は人の話をあまりきちんと聞いていない。
 いや、内容によっては聞いているし何かと感じているのだが、正確に言えば、「説明」を聞くことがものすごく苦手だ。読むのも苦手。それは、大人になってから気付いたことなのだが、物心ついていない頃から人の説明を聞いていなかったようだ。
 気になったきっかけは、二度目の自動車教習所に行った時だった。20歳前後で最初の自動車教習所の時でも毎回、講義で寝てしまっていた。「聞きたい」と思っても毎回気付いたら、首がカックンとなってしまうので、困ったものだなと恥ずかしかったが、防げなかった。その頃通っていた大学の授業では、好きな授業もあったし、興味がなくても友達がいて気がまぎれたので、寝るということはなかった。又、それまでの学生生活で、自分がそれほど説明を聞くのが苦手だという自覚はない。そして二度目の教習所では、人数が1〜3人の授業があって、目だって仕方ないし、その時はもう人の親なんだからということで、寝てはいけないと必死で頑張った。集中力を欠いてきたりボンヤリしてきたら、腕や手の平を指圧して心地よく「イタタタタ」と感じることで、眠気をまぎらわせた。落ち着かない自分を感じ、おかしいなあ私だけかなと気になり始め、子供が幼稚園に入ると、説明会などで、どうもじっと座っていることが苦痛であることに気付いた。そして、どうやら私はこういう場でただ座っていることが人より少し苦手のようだと気付いた。
 学校の懇談会など、あまりに辛そうな時は、最初から参加しないことにしている。話の内容がいやだというのではなく、身のある内容ならともかくも、単に書いてあることを読むとか、説明を一方的に長時間、ただ座って聞いていることが苦痛なのだ。
 そして息子が、時には聞き逃したり忘れたりするにしても、先生の話や連絡事項、学校の決め事の大体を聞いて覚えて帰ってくることに感心した。そういう話を聞いた後で「私の時はどうだっけ」と思い返した時に、自分のそういった記憶がない。どうやってあの行事、役割を決めていたんだっけ。いつの間に皆、進行がわかっていたんだっけ。私ってボンヤリしていたんだなあと呆れる。でも、当時は帰国子女だったことと、その後さらに転校したことが手伝って、周りを見て状況を判断することが多かった。そういった自分があまりに日常だったから、その状態に甘えていたのかなと思ったが、いやいやその前からである。アメリカに住んでいた時もわからないことが多かったので、周りの子供たちの様子を見ながら行動していた。でも、先生とか引率の人が説明していても英語がわからなかったもので。とか言い訳してみたが、いやいやいやもっと前からである。母が言っていた。「喋り始めた頃から、‘ママ、これなに?’って聞いておきながら、もう意識が違うところに行っていて、こちらの話を聞いていなかった。」と笑っていた。「ひどいねえ!」と自分でも笑ったが、いや待てよ、今でも大して変わらないではないか。
 女の人ってすぐ話題変えるしね、とかも思ってみたりするが、じゃあ懇談会は何故私だけあんなに苦痛なのだ。すべての説明や人の話を聞けないわけでもないし。