『アナと雪の女王』を観ながら、マーガレット・マーヒーが書いた『足音がやってくる』(岩波書店)という本を思い出した。その中で、‘魔法’は、「あなたの心の中の金色の部分」とされる。キラキラ輝く金色の部分。それが個性であると私は解釈した。そこを抑圧して成長し、ある瞬間から解放する、というシーンがとても繊細に大胆に描かれている。色々な解釈の仕方があると思うが、私にとっては隠し続けなければいけないと思い込んでいる突出した「個性」であった。その個性を抑圧されることなく、発揮できる場はまずは家庭であるべきではないのかと。『足音がやってくる』では、自分のそういった部分に嫌悪感を抱き、‘魔法’を、醜いものだとして隠して生きてきたひいおばあさんは、決して見せてはいけないと自分を抑圧して生きてきた。しかしそれ故に他の良い部分も失ってしまった。
 私は、この作品から、児童文学の世界においての‘魔法’を、個性として解釈し、多くの作品の‘魔法’は、子供だましのものではなく、個性としてこの世にちゃんと存在するものであると考えている。その個性は大人にとって、特に親にとっては脅威であるかもしれないし、周りの者を傷つけるかもしれない。でも、親が良くないと思って隠すよう抑えつけてきても、子供にとっては苦しく窮屈なものであるだけだろう。
 『アナと雪の女王』で、最初の盛り上がりは、雪の女王であるエルサの魔法が周りに知られて、一人山に行き、「ありのままの姿見せるのよ」と歌い上げるところである。何語でもカッコよく歌い上げられているその名曲は、日本語の歌詞も、感情が伝わる歌い方も、素晴らしいものであった。その役柄に入り込んでいるからこそ、魂の叫びとして歌われたのではないかと思う。英語では‘Let it go’で、その歌詞のニュアンスが少々乱暴でもあり、そこにエルサのそれまでの抑圧がいかに重荷だったか、そこから解放される感じがいかに自由かが表現されていて素晴らしいのだが、これを「ありの〜」「ままの〜」と訳した日本人訳者も素晴らしいと思う。
 この部分で、エルサは自分を押し殺して生きてきた苦しさを解放し、自分の個性を隠さずにいて良いという心地よさを知る。これについては、さらに詳しく後で書く。
 最後の方のクライマックスシーンでは、真の愛情を得るために皆が奔走するのだが、それとは別で、私が一番グッときたシーンは、一人部屋でドアに背を向けて泣いているところであった。妹アナが、ドア越しに姉を慕う気持ちを訴え、ドア一枚を隔てて姉が泣いている。一人で泣いてこらえなければいけない、自分の個性は発揮されてはいけないという場面に、私は過去の自分が重なり、その場面で涙があふれ出そうになった。胸がグーッと苦しくなった一番つらい場面であった。
 人は、誰かを傷つけることを恐れ、笑われるのを恐れて、自分の個性を押し殺す場面がある。それは、確かにまだそれが発揮される時ではないのかもしれない。でも、その苦しさはおそらくほとんどの人が知っているであろう。