話題になった『アナと雪の女王』を家族で観た。
 女の子が主人公だから、息子が気持ちを入れにくいのではと心配したが、何のことはない、周りの男の人やトナカイ、雪だるまのキャラクターに気持ちが入ったようで、クライマックスでは「頑張れ!」とか言いながら必死で応援していた。私も、日本語版で、ピエール瀧が担当していた雪だるま、オラフ君に夢中である。雪だるまならではの、ブラックな感じのジョークも笑えるのだが、喋り方が相当可愛い。おそらく大真面目にやっているだろうに、ピエール瀧の醸し出すうさん臭い感じもたまらない。しかし、あんな風に歌を歌えることにもちょっと感心してしまった。一応、ミュージシャン……と言って良いんですよね?彼なしには電気グルーヴは……とか聞いて知っているけど、どうにも喋っている時の印象が強くて。そして今回のオラフ役がうさん臭くも可愛すぎる。
 この映画を観ながら、私は自分が卒業論文で扱った作家を思い出していた。
 マーガレット・マーヒーというニュージーランドの児童文学作家を扱ったのだが、彼女の作品には、魔法が使える人が出てくるシーンが多い。‘魔法’というのは、児童文学で取り扱われる定番のもので、子供だましだとか思う人も多いかもしれないが、この‘魔法’というものは、大人の世界で何故出てこないか、SF物として架空の世界にまで話が発展してしまうのは何故なのか、当時、不思議に思った。子供の物語では魔法は何故多用されるのか。魔法は子供にとって、特別なものなのか。そして、マーガレット・マーヒーは何故こんなにも‘魔法’を話の中に扱いたがるのか。
 先生に言われるがまま、とにかくマーガレット・マーヒーの本を片っ端から読んでいった。長編も短編も。ちなみに日本語で。原文の方も読んだ方が良いと言われたけど、単語を辞書で引いてばかりいて全然進まずやる気を失いそうになったので、早々にあきらめてしまい、とりあえず数をこなした。
 そこで見えてきたのは、マーガレット・マーヒーの、「家族」というものに対する考え方であった。彼女の作品には、継母という、昔話でよく出てくる存在が度々出てくる。産みの親ではない継母。童話や昔話では、意地悪な存在や、魔女として登場したり、実は本当の血のつながった母親であったなどという解釈があったりする。母娘の問題を扱うものとすればいくらでも解釈ができて、なかなか面白い。しかし、マーガレット・マーヒーの描く継母は、全然意地悪ではないのだ。子供たちに悪意も抱かず、キツイ言葉も投げかけず、むしろ温かい。自分と血がつながっていないからこそ「あなたにはあなたの考え方があり、個性が存在するものね」といった風に、決して突き放すことなく、その子供の支えになり、温かい言葉と態度で見守る。マーガレット・マーヒーが描く話には、子供たちが継母に自分の存在を認められて成長する、という内容のものが幾つもある。継母は、その子供個人の存在を、他人としての目線で認めることができる。しかし、他人でありながら母性が強い。この温かみや家庭内での距離感が、子供にとっての理想の母親なのではないだろうか。
 家族間だけでなく、社会でもそのように一人一人の持ち味を、個性として認め合えるようになれたら良いのだが。