親って、子供に傷つけられても、子供に対する愛情は変わらない。怒りや悲しみを「傷つけられた!!」と勘違いして、子供に当たり、支配しようとする親もたくさんいるのはわかっているが、そういう人は自分の感情を振り返っていないだけなのだろうと思う。
 そうやって親である自分の感情を分析していくうち、テレビで「子供が親のことを思っている」というあからさまな言葉に、感動が薄れてきてしまった。別に心が動いていないわけではない。子供が親を思う気持ちはありがたく、感動的である。どんなに成長して大人になっても、可愛いし、良いものだなあと思うのだが、それを聞いて涙を流すほど胸にグッとくるかというと違う。どちらかと言えば「親はそれほど子供からの言葉に期待していないよ」とか「まだ親になっていないから、親の気持ちがそこまでは想像できていないんだろうな」とか、そんなものである。
 親に対して「ありがとう」とか泣いているのも、いやいや、別にそこまでのことしてないし。当たり前だし。子供のころの「親に感謝」って、そんなにわかってないしねぇ。とか、わが身を振り返り思ってしまう。
 子供同士の感動で泣いていても、緊張が解けたんだなあとか客観的に見るばかりで、いやいや、これからの人生、もっと感動する場面は山のように出てくるからねとか思ってしまう。辛くて泣いているのも、それはそれで、これからもっと大変なこといっぱいあるし、大人って結構その辺、誰もが経験するものだし、とか思ってしまう。
 もらい泣きしなくなってきているのに、こんなことまで思うようになったら、前みたいに泣かなくなってしまった。
 やっぱり、一般的に言われていることと逆なのである。子供が「感動してもらおう」と思って発している言葉に敏感になった。子供が「僕(或いは私)は感動している」という気持ちにも敏感になった。だから私はそういう時は涙が出ない。
 が。子供が何かを一人で背負ってきたというシーンだけは、前以上に涙が簡単に出てきてしまうようになった。これも子供がいるせいなのだろう。子供がある感情をたった一人で背負ってきたという事実、それが何年でも、何か月でも、一日でも、数時間でも、その気持ちをまだまだ未経験な人生の中で自分の考えを総動員して頑張ってきたという場面は、どんな子供であろうと、涙が出る。又、子供の本当のいじらしさや、親が子供を思う気持ちに関しては、一緒になって涙が出ることはある。
 他に、人間の弱さを感じた時も涙が出るようになった。ああこの人、どうしようもなかったんだなという思い。さらに、おそらくそれが、愛情への飢餓感だったりする時、そういう場面に出くわすと、涙が出る。(あっ犯罪に関しては別ですけどね)
 あと、元々のツボ、おじいちゃんやおばあちゃんがお互いを思う場面というのが出てきたら、やっぱり涙が出る。
 でもですね、そうやって随分絞られちゃったわけです。ツボは、あと幾つかくらいです。私はそんなわけで、涙もろさが減っちゃいました。ちょっとしたことでは、全力をかけなくてもこらえられちゃうくらいになってしまいました。おかしいなあ。