親子関係、とりわけ母娘関係について、今まで書いてきたように思えるのは、自分が、娘である立場から母親を見た時に、自分が息苦しさを抱えてきたことに気付いたからである。子供ができて、それが母と自分との関係に起因することに初めて気付いた時、私は母に非常に大きな反発心を抱いた。今まで感じたあらゆることと、当時の感情を重ねて攻撃した。だって、私は自分の子供のそういった感情を受け止めようと努力していたからである。何故私ができるのに母はできなかったのかと思った。
 でも、母はできなかったのではかった。
 私だって母に向かっていったことがなかった。自分が親になって初めて母に向かっていった時、母は悲しんだ。私が良い子ちゃんではなかったこと。優しい娘ではなかったこと。思うような子供ではなかっただろう。何度も感情をぶつけては、挫折したり傷ついたりもした。そんな頃に反抗期のやり直しのような。でも、やはり、「母親」だって一人の人間。母親の個性や育ちの環境でもってしか対応できないものである。私は、母の子供であるが、一人の人間である。それを認めてほしいのと同じに、母も一人の人間であり、分けて考えなければいけない。「私は母と同じように考えてない」ということは、「母だって私と同じように考えていない」ということなのである。そのことにやっと気づいたが、私はそこからどうすれば良いのかわからなかった。母親を悲しませている罪悪感もつきまとう。何かを選択する時に、母親の気持ちや考えが重なる。自分の意志で考え感じることを実感できるようになるまで、私は母娘問題について深く考え続けた。色々な本を読んだ。本には色々書いてある。親の毒成分とか、親のせいであるとか、対決するべきであるとか、母親の偉大さについてとか、トラウマの克服の仕方とか、あきらめることとか。
 結局私にとっては、そういった文字として書かれてあることは段々と関係なくなっていった。もちろん読まなければそこまで気持ちも到達しなかったことも付け加えておこう。
 私が感じたのは、つまり、子供は親を許しても許さなくても、どちらでも良い。対決してもしなくても、これまたどちらでも良い。どう整理つけるかは個人の性格や気質、考え方、表現の仕方によるものである。なので、どの方法がベストとは言えないし、どの方法を選択してもベストである。個人の納得する方法で良い。整理することができたら、自分や周りの人の気持ちを大事にできる。それによって周りに連鎖を生まなくなる。
 そして、私にとって一番大きなことは、母は母親としての役割を果たした。そんな私を受け入れてしまえた。攻撃的で気分屋で甘えたがった30代で反抗期をやり直した私を、仕方なかったとしても受け入れた。そして、少しずつ再構築を重ねている。最近は、色々と発見もあり、元気で健康に暮らしている親の存在がありがたい。やはり母親という存在は、子供の怒りや悲しみを受け止められる。すべての母親がそうだとは言えない。でも、子供にとって親はそういう存在であるべきなのだ。こればかりは、大人である側の親が頑張らなければいけない。受け入れられないなあと思っても、受け入れたフリでも良い。大人は頑張れる。親になってつくづく思う。それこそが大人の頑張りであり、親という役割であり、子供が納得して「自分の人生」を歩むきっかけであろうということ。