昨今、母娘の問題が取り上げられ、娘側を擁護した本、娘側からの言い分が書かれてある本が出回っていることに対し、母親側の言い分がなく気の毒だ、といった内容の文について、まだ書きたいことはある。
 母親側からの言い分が聞かれないのは、先に書いたように、母親は娘の言い分に対してそれほどダメージではない場合もあるだろうが、ショックを受けた母親が精神的に不安定になる場合もあるだろう。ただそうなることで、娘に罪悪感を与え、気持ちを縛り付けたとしたら、母親側はそれで娘をコントロールしていることになる。それだけ娘は、母親の表情、心情を気にして生きている。父娘、父息子、母息子でも同じことが言える(全く同じではないということや個人差があることも付け加えておく)。
 自分の生き方や考え方に、親による影響力が減ってきて、親が脅威でなくなったら、ようやく子供が自立できたということである。親に対して、真の感謝或いはその親子によってはようやく愛情が湧く時だ。我が子はまだまだ親に依存している時期なので、感謝されても、どの程度の気持ちや意義を伴っているかくらいはわかる。子供が今後どうなっていくかは自信がないし、どんなことを言われても受け止めなければいけない。どんなショックを受けるかわからないが、覚悟をしておかなければ、とも思っている。
 子供にとって、親と自分を切り離し、行動も考え方も客観視できるようになること。「反撃したら親に申し訳ないから」「親も一生懸命子育てしてきたのだろうから」などと思って口を閉ざしているのは、子供が親に気を遣い、親がいないと自分をコントロールできない、自分は親の支配下にいるということである。子供にとって、親の意見はあくまでも「参考程度」というくらい、子供にとって親は「強大な存在ではない」「親も一人のただの人間なのだ」と実感することが、子供の真の成長である。そこまで至らないから、子供側は声をあげようと頑張っているのだ。
 なので、子供が親に対して反撃するのは、子供自身の心を整理するうえで大いに結構。自分の言動に罪悪感があり親の言うなりになってきた子供が、はたと自我に目覚める。自分が親の意図するように動いていたことに気付く。そして親のせいで私はこうなった、と思い主張してみることに私は異論を唱えない。それこそが親子関係だからである。子供は親に甘えることが家族である前提なのだ。甘やかすのではない。注意するべき時に注意せず、又何でも与えることは甘やかしである。自分が譲れないと思うルールや危険に対して、言葉だけで注意しても、態度が伴わなければ、私には甘やかしに思える。体罰、虐待をすることには反対である。そういうことではない。誠心誠意、真剣に注意して、親である自分の言葉に責任を持ってほしいということなのだ。手間がかかる。すぐには効果が表れない。親は泣いたり悩んだり困ったりで、疲労困憊するほどの根気が必要である。それが子供へのしつけというもので、親子関係を築いていく上で大事なことだ。抑えつけて、言うことを聞かせるのは簡単である。だが私はそれを子育てしているとは思わない。
 ここに何度も書いてきた。甘やかしと甘えさせることは大きく違う。親は子供のボスであるべきだ。でも、親は王様ではない。