今住んでいる所は、元々私が住んでいた関西より、ずっとずっと田舎。閉鎖的で、保守的で、ヨソ者を受けいれる度量が狭い。
 多くのお母さんが、さらにその親を頼って、自分の子供を見てもらっていて当然であるという家庭がとても多く、我が家のような、双方の親が遠方に住んでいて、何かあった時に頼れる人がいない、という家庭環境の人は少数派である。先生方もその辺が、鈍感であるように思う。
 何かあっても、おじいさんおばあさんがいるでしょ、という思い。それは、息子が幼稚園に入る前に、私の体調が安定しない頃から、感じていた。何故健康そうで、働いてもいないのに子供を預けるの、と言われ続けた嫌味。学校側が保護者を呼び出した時に、子供たちが家で一人きりになるかもしれないという想像の及ばない先生たち。
 さらに、「学校」と言えば、こういうものだという、この辺りの学校事情、少なくとも県内の事情しか知らない先生たち。
 私は、アメリカでの教育も目にしたし、実家の宝塚での教育も目にした。夫の住んでいた地域の教育も多少耳にした。ここは宝塚や、夫の住んでいた札幌と同じ日本だけど、だいぶ習慣が違う。それが地域性によるものなのか、時代なのかはわからないが、少なくとも先生の多くは、「私が子供のころはこうでしたけど」と話すと「えっ、じゃあ○○は、どうなるんですか?」と、びっくりして、ぽかんとした表情になる。
 そんな中での、親同士の意見の交換で、ああ、皆何かしら不満や不安を抱えていて、学校側に対して、絶対的な信頼をおいているわけではないのだと知った。そうか、私一人じゃないんだな、こういう風に感じるのも、学校や先生に対する気持ちに関しても。
 共感してくれる人がたくさんいる、ということや、色々な人と「自分たちの気持ち」を表現し合ったことで、私は孤独感から脱出できた。
 それも、単なる「孤独感」ではなくて、「帰国子女」というレッテルを自分で貼っていた卑屈な孤独感。
 これに気付いた時、私の心は大きく揺さぶられた。
 それまで、心理学関係の本、精神科医、カウンセラーなどの本を読んで、家族間や災害によるトラウマの乗り越え方、などを勉強したり、自分や他人にも生かすように努力した。少しずつ克服していっている。しかし、帰国子女の思い、その当時に抱いたトラウマというのは、教育という漠然としたあまりに広く大きなもので、どのように対処すれば良いのかわからなかった。
 ところが、こうやって色々な人に聞いてもらったり、皆で学校や先生に対する思いを話し合っているうちに、自分の気持ちが溶け始めていることに気付いた。こんな温かく心強い気持ちになったのは初めてだった。
 帰国した時のトラウマ。どうやら、ここから抜け出せそうである。
 これは、35年も抱いていた思いを克服することである。ものすごい体験なのだ。不満や不安、恐怖心が、またよみがえることはあるだろうが、その度に私は今回のことを思い出すだろう。皆と話したこと。一人一人の温かく、時には熱い思い。皆の気持ちを知ること。私にとっては、これが、一番の克服の方法だった。