ある先生の、僕はこんなに考えていて、こんなに優れているといった発言や態度で、怒りを感じたのだが、口先ばかり良いことを言う、という内容にも腹が立っていた。
 その後、クラスにほんの少し変化は見られている、と先にも書いた。しかし、私はその先生に抗議したい気持ちでいっぱいだった。怒りが腹の底から煮えたぎっていた。
 「許せない、あの先生、あんなこと言っておいて、何も行動にしていない。人をバカにしているよ。誰かに抗議したい。」と、鼻息荒い私を夫は冷静に見ていた。
 「あのね、僕にとったら、頼りない人だなあ、‘口だけ番長’だなあって思うよ。だけど、キミは怒ってる。プンスカしてる。どうしてそんなに恨みがましいの?」と言われた。
 今回の問題が起きた当初から、時々「それは陰湿なやり方じゃないか?」と指摘されることがあった。確かに恨みがましい考え方で、やりこめてやりたいという気持ちが常にあった。気が済まない、と思っていた。夫はさらに続けた。
 「キミに、そういう体験があったからじゃないの?先生がわかってくれないっていう。」
 夫に言われて、すぐに帰国子女当初のことを思い出した。
 「あの時、誰も助けてくれなかった。学校に着いた時の恐怖心、皆の頭の色が全部一緒だった気味悪さ。持ち物や絵がそっくりなことの恐怖心。一人だけ違うっていうことが許されない雰囲気であることも、すぐに感じ取ったけど、先生は何も言わないし、教えてくれなかった。帰国子女として入ったのに、説明することもなかったし、先生が帰国子女を理解しようという気持ちもなかった。」言葉もとめどなく出てきたが、心の中でも止まらなかった。怯えて毎日学校に通うという気持ちをおしこめていたこと。何かを質問しても、周りの子が「何でわからないんだ」と怒ること。絵が違うと笑われ、持ち物が違うと「変わってる、変」と言われたこと。歌のメロディは知っていても歌詞がわからないこと。一つ一つの行動が、何故そうするの?と不思議でならなかったこと。それはどういう意味?といちいち聞けなかったこと。聞かなければいけない環境から、聞いてはいけない環境へ。恐怖と、元の場所に帰れない悲しみとで、いっぱいだった。7歳の私は、自己主張の仕方と、意見が違っても議論し合うことを体に染みつかせて帰ってきて、それを発揮する場がないばかりか、共感してもらえる人も一人もいなかった。どうしていいかわからない私は、ただ大人しくしていくしかなかった。感情はずっと閉じていた。無感覚でいようと努め、目の前には、長い間、薄い膜が覆っていた。
 そして「その先生に対する恨みを除けたら、今のクラスのムードは、様子見で良いと思う。」と、素直な気持ちが口から出てきた。
 思っていた以上に、私の、帰国子女当初の闇は深い。「陰湿な私はいやだよね。」と落ち込むと、夫は「いやではないけど、まだ未解決なんだなと思う。」と言っていた。
 母にも聞いてもらっている。当時言えなかった思い。何年も経っているのに、それでも私の記憶は鮮明すぎて、目の前がくらくらするようだ。
 この思いを、自分で認めて、吐き出して、それを、少しずつ少しずつ克服していけるのだろうと思っているが、時々日本の教育の向かう方を考え、絶望的な気持ちになる。