子供ができて、育てる時に、私の中でよみがえるのは、アメリカで観たテレビ番組や、学校での様子である。ハッキリと自分の意見を言い、自分の意見を言えない人は、自分の考えを持たない人であると見なされ、生徒同士ばかりでなく、先生からも軽蔑の眼差しを向けられる。だから、自分の意見を大きな声で主張できなければいけない。しかも、日本人だという前提があるので、「日本人だから、言えないんだ」とか、そういうことまで言われたり思われたりするので、常に自分の考えを持ち、主張できなければと思っていた。しかしそれは、苦痛とかストレスになることはなく、自分が考えた意見を大きな声で主張できるのは、気持ちの良いことであった。例え相手と違っても、幼いながらも議論の場が与えられていた。議論できない子は、すぐバカにされて、自己主張できる子の言い分を聞くムードになる。
 また、あっちでもこっちでも、良い顔する人も軽蔑された。この人は自分がないの?自分の好みはどうなの?ハッキリ気持ちを言えない人なんて、と思われた。
 だから、自分の子供には、自分の気持ちを、自分の言葉で表現できる子であってほしいと、それにはとても心砕いた。
 どんなに小さな子でも、理由があって、何かを言い、行動を起こす。自己主張はちゃんとあるはずである。それを親が、コントロールして、その子を骨抜きにして、親の思い通りに動かしてはいけない、という気持ちが私には強かった。自己主張をして、周りを納得させたからには、自分の行動に責任を取って、泣いてもわめいても、その結果を受け入れることを私は望んだ。だから、周りを見て、どうするかを決めるという言動は、私は好まない。自分がどう思うかだ。
 小さな子であれば、特に、ささいな、大人にとってどうでも良いことから決めさせていくことが、その子の判断力を養う。どうでも良いから、大人が決めるのではなく、どうでも良いことだから、子供に決めさせてみる。
 これには、私と息子の関係、お互いの性格や気持ちから来るものもある。
 息子は、親の言うとおりに振る舞える子ではなかった。赤ん坊の頃からだが、間もなく言葉を話せるようになり、2歳児の反抗期に入っても入らなくても、とにかく自分の思い描くものがしっかりあって、そうでないと、もう本当に恥ずかしくなるくらい、泣き喚いた。親が決めても、子供自身が決めても、自分の思うようにならないと泣き喚く。
 どっちにしてもそうなら、どうでも良いようなことは、子供の意見を聞いてみて、その通りに動き、泣いたとしても、「それはあなたが決めたことだから」と、こちらもイライラしつつへこたれなかった。子供が決めたことなら、泣こうが喚こうが、子供自身「自分で決めたのに思い通りにいかない」ことを思い知る。
 そういうやり方で、息子に自分の言動に責任を取らせていった。
 例えば、駐車場で車をとめる場所。食事のメニュー。どこかへ行くか行かないか。
 ちょっとくらいおかしな内容でも、結果泣いても、自分で決めたんだからと、言い聞かせた。