もっとたどれば、どうしてもそこに戻ってしまう、私のアメリカで受けた文化の影響である。何度も書くが、私は、時々聞かれるような‘アメリカびいき’ではない。日本が好きである。でも、私が物心ついた時にいた場所、目にする文化、そして初めて受けた教育、は、アメリカのものであった。なので、そこで行われる親子間での会話や、先生と生徒の会話などが自然に入ってきていた。
 自分のカラーを出さないと、「真似をしている」とバカにされるような場所で、自分の立ち位置を考えずにはいられない。自分が日本人であることと、よく日本をわかっていなかったこと。
 テレビの画面を見ながら、親子や友達ってこういう会話をするのかと思ったこと。ウチでは何故おこなわれないのかとすごく不思議だったこと。不安だったし、寂しかったこと。日本人だからかなと思って見たこと。
 自分の意見を持たないといけなかった。持っていないと小ばかにされる。その意見が幼稚でも構わない。自分はこういう意見だと主張しなければいけなかったし、私はそれが心地良かった。
 「表現する」ということ。
 言葉で言わないと伝わらないということ。
 これは、幼少期にたたきこまれたのだ。染みわたるというよりは、表現しないといけない環境であり、それで私は自然だった。だから、私は、自分の子供に「表現できる」子であってほしいと思っている。いや、欲を言えば、すべての子供が。そういう子供を可愛いと思う。それはできれば言葉で。直接言えなければせめて文字で。そして言葉で表現できなければ、きちんと相手に伝わったという実感がある何か別の方法で。
 私にとって、「照れ」は理解できる感情であり、私の中にもあるもので、照れている人は可愛いが、それを理由に、大事な人にまで表現しないことは、逃げていると思っている。自分が大事に思っている人に対しては、それを超える勇気が必要だ。
 だから、表現をしたい。自分が大事な人には表現してほしい。家族は表現し合える間柄であってほしい。表現するには、その人の考えが必要である。考えて自分のオリジナルを出してほしい。考えるには、まず感じることが必要である。感じているのに、考えないようにしているのは、悩みにつながったり、どこかでストレスとなって、体が信号を送ってくることがあったりする。そうでないこともあるので、「絶対」とは言いません。ただ、感じているのに考えていない人は、周りに何らかの迷惑をかけていると思った方が良い。私だって考える側のように書いているけど、それでも周りに迷惑をかけるほど頼りないし、考えていないこともたくさんある。