小学校に関してだけど、授業を見ていて、先生、もったいないなあと思うことがある。
 小学校の道徳や国語というのは、生徒の心をつかむてっとりばやい授業である。これがあまり得意でないと、きっとその分、少しだけ大変だ。もちろん、理科でも社会でも図工でも体育でも、生徒の心をつかむ授業はできる。そこはもちろん、先生の力量であり、生徒の好奇心をかりたてることができれば、だいたいそういった科目でも、物事に対する考え方など、伝えることはできる。ただ、道徳も国語も、てっとりばやいのである。人の心について考えるということと直結した内容だからだ。
 私の場合は、幸い、国語が得意で、教えることも好きだったので、塾や地域のインターナショナルスクールで国語を担当する時に、とてもやりやすかった。一人一人の生徒の目を真剣にさせることに心を砕いた。
 国語を教える時、そのクラスを担当する最初の時に、私はいつも、「関係ないことでも、‘考える’ことで国語力は伸びるんだよ」と伝えてきた。何故なら、そういった実験を見聞きして、ものすごく腑に落ちたからだ。その中でも、特に印象的だったエピソードは、ここで書いたかどうかも忘れたし、詳細な内容の記憶が定かではないのだが、アメリカで、白人と黒人について考えさせる授業をするという実験を行ったというドキュメンタリー番組である。黒人は白人より劣っていて、何を言っても良いのだということをクラスの子に先生が伝える。その日のクラスの雰囲気は険悪だった。で、その次の日、先生は「間違いでした。白人の方が劣っていました。黒人は白人に何を言っても良い、昨日だって嫌なこと言われたでしょう。白人は無知だったのです。白人は何も言い返せないんですよ。」といったような内容のことを言う。すると、前日と立場は逆転し、またクラスの雰囲気は殺伐とする。で、さらに次の日だったか、真相を明かす。そして、クラスの皆で本気で話し合っていた。どんな気持ちを持ったか。その日、次の日、言ったこと、言われたこと、友達に対して、先生に対して。
 で、こういったことが行われた後、皆の成績が顕著に伸びたのが、国語だったのだ。
 若い頃にこの番組を観た私は、考えることの大切さを知った。
 自分が、心の中にあるものを言語化するのが好きだった私は、これが自分の国語力に影響を与えていることを知った。
 あと、幼い頃から「納得しないと、どうしても思考が堂々巡りをしてしまう、また同じ失敗をする、ストレスが解消されない。」といった癖を持っていることを何となく自覚していた私は、考えることが大切であることを身に染みて感じていた。
 本が好きだった私は、自分の読み取り方というのが、必ずしも一般的であるとは限らないことも知り、人と同じとは限らない「物事に対するとらえ方」「考え方」にますます興味を持った。そこで、本を自由に読んで良い楽しみを知り、感想文が模範的でなくても良いのだと自信を持った。映画に対しても、自分の受け取り方で良い、他に、絵や音楽など、芸術関係は、自分が「考える」ことによって、どのようにも解釈できるし、その「考え方」が、自分を形成していることを知って、面白い、楽しい、と思うようになった。