前を向こう。
 でも、前ばかりではない、後ろも振り返ろう。
 それは今後の自分を保っていく上で避けられないことでもあり、大事なことである。
 津波に遭いながらも逃げのびた人たち、犠牲になった人の家族や親しい人たち、大人も子供も、その意味を考えることもあるだろうが、命に感謝して、とにかく生きていかなければいけないのだと思う。
 私たちは、当事者である部分と、そうではない部分がある。放射能に関しては、静かにその影響がある。人それぞれの考えを尊重する関係が大事になってきたし、それが自然になってきたことも、良い傾向だと思う。アナタは、こういうやり方を気にするかしないか、お互いの考えを聞き、それが自分と違っても、ああそうなのかと納得することが、本当に良い関係を築くのに必要だということを、改めて気づかせてくれた。そして、そういう関係を築ける人が少し増えてきたように思う。人それぞれね、私とは違うけど、それがその人の選択なのね、と線を引きつつ、付き合う感じ。相手の気持ちが自分と違っても、それを批判せずに尊重する。
 でも、前までは心配しなくて良いはずだった不安な気持ちと、ほんのちょっとの窮屈な思いを抱き続けることが、少しずつストレスとなって積み重なることもあった。除染だ除染だ!どこの数値が高い!と、神経をとがらせなければいけない状況にいないだけマシなのだろうが、精神的にほんの少しいつも引っかかっているような気持ちの悪さも感じている。一昨年から昨年は、その気持ちがもっと強かったが、今年は少し気持ちが落ち着いてはきている。空間放射線量が下がったこともあるだろうが、それでも、どこそこの何は数値が高かっただの、度々ニュースで読むと、ちょっとした日常、自分の周辺でも、まだまだ気を付けなければいけないのだなと思い出す。子供たちが落ち葉の中で遊んだり、どんぐりを拾ったり、まったく気兼ねなくできるようになる日がいつやってくるのだろう。それにしても、最近の世界の情勢もあちこち気になる。日本そして東北だけではない大変さが、以前より、心にヒリヒリとしみるようになってきた。
 当事者かそうではないかということは、人と人が対峙した時には関係のないことであるようで、実はとても重要である。当事者じゃない方が、必死な感じがなく、忘れがちになる。でも思い出した時に、心がとても重苦しい。「当事者である」という重みと、「当事者ではない」という重み。
 原発に関して、一度は避難した身ということもあり、食材やガソリンが一時流通しなかったということもあり、私たちはやはりその面に関しては当事者だと思っている。
 でも、津波に関しては当事者ではない。今回は津波の被害、犠牲者が多すぎました。だから、私たちのような立場にいる者は今後のことだけでなく、彼ら彼女らの悲しみを忘れずに、過去のものにしないよう、覚えていなければならないと思う。