大きな地震が起き、津波が起きた。そこから逃げることも、広がる放射能による避難も、皆、生きることに必死になった。
 でもその後、じゃあこれからは前を向いていこう!ということ「だけ」ではないと、私は最近そんな印象を持ちながら、テレビや周りの人を見ている。
 確かに前を向いていかなければならない。これから生きていくのだから、そうするべきだ、とは思う。でも、大切な人も住む場所も失っていない私たちは特に、時々立ち止まったり、後ろを振り返ってみたりすることも必要だ。彼らの悲しみや苦しみを一過性のものとして、前を向いていこうよ!と、当事者のようでそうではない私には、声高に叫べない。
 過ぎ去ったことは終わったこととして、じゃあこれからどうしていくか。その気持ちがないと、人間は強く生きていけない。でも。それだけではない。自分にとっての大事な人を失った時、そして大事だと思っていた場所から離れなければならない時、私たちは前だけを向いて歩いていけるだろうか。彼らとの、そしてその場所での思い出を胸に、それがあってこその今、の自分があることを度々思い出しましょうよ。
 私たちは、彼らの悲しみがあっての今だということ、その上に立ち、それがあっての「前」を向いていくことをちゃんと意識していないといけないと思う。
 何も失っていないと繰り返す私、実際に何も失っていないのだが、ここで一番親しい人は、1年間、避難していたので、ほとんど会えずにいた。ここにいて、近くで一番心を許せる相手なので、いないということは、日常が辛かった。その次に親しい人も地震後、ほとんど会えないまま、夏に避難してしまった。私の学生時代からの親友は、関西に二人いるのだが、幼少期から、アメリカ→宝塚→市内の別の場所→アメリカ→札幌→現在住む場所 と、移動してきた私には、親しい人と何度も別れを繰り返してきた。今回の居住地は、長く住むことになりそうなのだが、ここで親しくなった友達が二人とも、離れてしまった時期があった。その間、彼女たちと会ったことや会話、その時の風景を思い出し、日常的にこなしてきたことを思い出し、いつもの光景は変わらないのに、いないという現実がとても寂しかった。
 今は、メールという便利なものがあるから、連絡は取れるけど。それに、永遠の別れではない。会おうと思えばまた会える。ただ、一時的にでも心はスレ違ったり、分かり合えなかったり、お互い疑心暗鬼になったり、信頼感が揺らいだりした。
 そしておそらく、実際に大事な人や物を失った人たちにも言えることだろうが、新たな出会いがあり、それまでの友人関係も良い方に変化した、という相手が何人かいる。
 きっとこれが、すべての人の希望の種なんだろう。
 あらゆる者と物を失い、私たちがその悲しみの上に立っていること。何かを送った、手伝いに行った、助けに行った、ハイおしまい。だけではない新しい縁が生まれたとしたら、それが私たちの生きる力になるのだろう。過去となってしまった人たちも、そして出会えた人たちも、これから続いていく人たちも、皆、今現在の自分にとって宝だ。