『最強の二人』を観て、対比されていることが多いなと、後からじっくり考えてそう思った。富裕層と貧困層。白人と黒人。障害者と健常者。あらゆるものを超えて、二人の男性がお互いを理解し合っている。
 実際にある話に基づいたもので、映画の最後に、実際の二人の様子が一瞬映った。それを見て、この二人は実在し、今でも関わっているのだと、実感することができた。
 お金のある人とない人。その格差について、私はなす術を知らない。先入観や偏見もどうしてもある。この黒人のドリスが、複雑な家庭環境で育ち抱えている悲しみが常につきまとう。彼の生活の拠点となる場面になる度、それを変えることができない閉そく感があった。そこに甘んじてしまう、というよりは、変えられない現実に息が詰まる、というようであり、観ているだけで、重たい気持ちになった。楽しい場面の後に、そういう場面を見せられる度、現実をつきつけられるようであった。実際にこういう人たちが、世の中に山のように存在すること。なす術を知らない私たちが、先入観と偏見に満ち溢れることを、心の片隅から「それで良いのか」と訴えてくる。なるべく偏見の垣根を取り払いたいけど、警戒心と共に、全てを拭い去ることはできない。この差別、そして社会の構造。適度に満足した生活を送っている私たちは、それを忘れてはならない。何かできることはないか、日々、思い起こす必要がある。そして、世界中だけでなく、日本にもそういう格差が生まれていることに対して「自分は今の段階では大丈夫だから」という目線で良いのかと、問い続けなければいけない。考え続けたい。ドリスが、自分の生活に戻った時に、耳に光っていたダイヤのピアスが象徴的であった。
 障害者に対してもそうである。健常者である私たちは、どう振る舞って良いかわからず、怯えているところがある。でも、ドリスは違う。「大変だな」と、率直に言って、自分が動けることをさらしても平気で、遠慮がない。ひどいジョークも言う。
 でも、言葉に心がとてもこもっている。なんて温かい心を持ち、それを表現できる人なのだろうと、胸を打った。看病とか介護って……いや、「自分や相手がどういう立場であれ」人と接するってこういうことなんじゃないだろうか。看病や介護をする時に、率直に病気を口にし、そして相手を尊重しつつ、信頼感を与えられる心のこもった接し方ができるだろうか。スキンシップを取り、言葉で伝える。だらんと垂れた手を、あまりにさりげなく椅子に乗せるシーンがとても印象的だった。そして楽しみを分かち合う。相手のために、時には精一杯の気持ちで応える。身体に障害のある人に対して、生きる喜びを伝えられるだろうか。ドリスと言う人は、それを深く考えず真摯に、でも自然に振る舞うことができる。彼らは、お互いを違った立場の者と認識しながら、でもその前に、相手も人間であるという基本的な考えを失わずに接している。
 ちなみに、イヴォンヌというお手伝いのおばさんが、非常に魅力的であった。ドリスに対して、他の人と同じように喋り接することができた。時にはユーモアを言い、ドリスの言動に素直に反応する。この人もまた、相手がどんな人であろうと、一個人として接することができる。ドリスに似た感情や心の温かさを持っているのだろう。