スクールカウンセラーと話したことに話を戻す。
 自分が、そういった「発達障害」とか、「その傾向にある」とかいう類の人と話す時(しつこいようだが、自分を含めた誰でもチェック項目のいくつかはあてはまると思っている)、特徴として、こう言えば、こんな種類の答えが返ってくる、ということがある。「それに対して、どんなに一生懸命伝えても、伝わっていない気がする。伝わっていないから、何度も言う羽目になる。」と話すと、「伝わったかどうかは、その後の行動で見るしかないと思う。」と言われた。
 当たり前のことだが、改めて言われると、ああそうかもしれないと気が付いた。
 態度、というより「行動」という方が、この場合の言葉もしっくりくる。
 自分が訴えたことが、相手の行動にどう表れているか、それを日々の生活で見て、初めてああ伝わっているんだと気付くことが、確かにある。伝わっていないと思うこともある。あの時は、すごく思い入れたっぷりに返事していたくせに、結局何も変わっていないじゃないかとか思うこともある。でもそれは、幾ら聞いてもらっている気がしていても、結局伝わっていない、ということなのだ。その「行動」を見て、伝わっていないと思うなら、また言い方を変えて言ってみれば良い、それが言葉を伝えること、言葉について、又、相手について考えることの醍醐味ではないかと、カウンセラーは言った。そうか、大変だけど、工夫することが要求されるんだなと思う。そして、それがコミュニケーションを取るという本当の意味なのだと。
 さらに、息子に「お疲れ様」と何げなく言った時に「疲れてなんかないよ」と返事されたことについても話した。文字通り受け取ってしまうその特性。私は別に本気で「さぞかし疲れたでしょう」と思って言ったのではない、とプンプンしてしまったが、夫は「最近は、誰でも彼でも、どんな時でも‘お疲れ様’って言う。」というようなことを言って、ああやっぱり夫もそっち側なのかと話す気を失ってしまった。が、息子に後から「お母さんはこういう意味でミツに言ったんだよ、それはわかってね。」と話していたのが聞こえた。 
 カウンセラーにその一連のやり取りを話すと「それは、旦那さんが、ちゃんと言葉の意味についてわかっているっていう証拠。わかっているけど、自分の意見も言いたい。あなただって、あなたの言葉のニュアンスを伝えたいわけで、旦那さんだって言いたいじゃない?」と言われ、ああそうだよな、自分だけ「わかってよ」って自分の意見を言いっぱなしは、それは会話じゃない、ただの押し付けだと思った。そして、カウンセラーが言った。
 「‘お疲れ様’っていう、たった一言で、家族それぞれに受け取り方がある、それを個人個人が、自分はこういう受け取り方だって言い合えるなんて、それは理想的じゃないですか、そうやって言い合える家庭の雰囲気を作ったことこそが、アナタの努力してきたことなんじゃないですか?」
 うーん。うまいこと言うなあ(笑)。乗せられているかもしれないが、確かにそうだ。反対意見だろうが、お互い多少プンプンしようが、自分はこう思うという意見を言い合いたい、そういうコミュニケートの仕方が好きなのだ。家族にそれを求めてきたではないか。