確かに、メンタルケアアドバイザーの通信講座で、そういう訓練をした。つまり、人の心を扱う時って、そういう訓練や経験が少なくとも一度は必要なのだ。
 ある場面を思い返して書いていく時に、人はつい、相手の表情や雰囲気、言葉のニュアンスを想像で書いてしまう。「そうか、事実のみを書くんだな」と心がけていても、つい「そう言って、いやな顔をした」とか書いてしまう。「いやな顔」は自分の主観なのである。また「そう言って笑った」と書いても「あははと声を出した」というような書き方にするのだ。楽しそうに笑ったのか、バカにして笑ったのか、誤魔化して笑ったのか、そんなのは自分の受け取り方なのだと。とにかく耳に聞こえてきたものだけ、それのみを書きなさいという訓練をした。何か月もやって、もう書くことはないと思ったのに、最後の方でも、まだ訂正箇所はあって、事実のみを書くことの難しさを知った。どのような表情かももちろん想像、自分の気持ちが入ってしまっているから事実ではないのだ。気持ちは、別の欄に、自分の気持ちだけを書く。そういう印象を持ちましたという意味で。そこでやっと気持ちが書けるのだ。そこでやっと、ああ「自分が」こういう受け取り方をしたのだ、と気付く。「相手がこう言った」「それに対して、自分はこういう気持ちになった」ということで、初めて相手の言葉にニュアンスが出る。そしてそれは、自分の受け取り方、ということなのだ。繰り返しやることで、事実だけを受け止める練習、書きとる練習をし、それによって「ああ自分はこう感じたのか」という客観的な見方ができるようになる。
 そういうのを繰り返していくうちに、人が人のうわさ話をする時に、いかにその人の主観が入っていて、相手によってはそれがいい加減なものかがわかった。また、気になっていた相手の印象も変わったし、その相手が「自分はどういう印象を醸し出しているか」ということにいかに無頓着かもわかったりした。
 又、息子にどもりが少しあるので、それについても、色々調べて納得したのは、言葉を発しない時間も大事であるということであった。
 「言葉を発しない時間」「言葉にならない時間」「言葉につっかえる時間」の大切さである。すべて意味があるのだと。
 カウンセラーの本を読んでいても、「無言の時間を待てなければいけない」というようなことが書いてあった。相手が黙った時に、空間を埋めようと、何とか話すのではなく、その空間で、相手はもしかしたら、色々なことに思いを馳せているのかもしれない、言葉を選んでいるのかもしれない。その時間を大事にしなさいということが書いてあって、なるほどなあ、空間をあまりあけずに話せる人を話し上手だと思っていたけど、違うんだなととても納得した文であった。