最近改めてそういった類の本を読んで、これも当てはまる、あれも当てはまる、こんな具体的なことまでという内容に、ショックを受けた。今までもそういう本は数々読んできたけれど、そこには、とても具体的な会話が書いてあった。
 目に見えて、息子の振る舞いをたとえば外でやられると少し恥ずかしいなと思うことが、息子の個性ではなく、野放しにしていた私のせいもあるだろうが、そもそも、そういう特性を持っているからであったということ。それは今まで葛藤してきて、開き直ってきていた。詳しく書けば、こういうことができない、こんな風になってしまう、という目に見える行動には、私は気が付いていた。元々そういうことは、人間性には関係ないと思っている。大人になるにつれ、マナーとして身につけていけば良いものだと思っていたし、あまりこちらがこだわると、その状態だけでなく、精神状態も悪化するとわかって、あえてしつこく直したり、叱ったりはしてこなかったが、事務的に注意はしてきたし、もちろん気が付いていたからそうやって気にもなっていた。ただ、会話にはあまり頓着していなかった。
 あれれ。私の接し方の問題ではなかったのか。私が注意しなかったからじゃないのか。私が気を付けて接していても変わらなかったのか。息子の天性のものに対して、私の努力は、まったく無駄であったのか。ぬかに釘ってやつなのか。息子の個性だけで返答していると思っていたことが、実はそういう特性から来ているものであって、息子独自のものではなかったのか。
 夫もその傾向にあるように見えるが、私は私で、違ったチェック項目で当てはまる所が割とある。お互いの兄弟に関してもそうなのかもしれない。でも、私は違った部分なので、息子のことがどうも理解できない。性別の違いもあるのだろうか。夫に相談しても、夫は息子の気持ちとか発達の段階が理解できるようで、どうも話を聞き流される。私が気にし過ぎだという印象を受けるし、話しても話しても手ごたえがないような気がして、心細さは増幅するばかりであった。私には理解できない次元なのか。学習的なこと、知識、好奇心、頭の良し悪しとかでなく、性格でもなく、理解できないのは、気質的なものである。そして、ああわからない、と混乱し、わからないことが苦痛になった。
 20年程前に読んだ本の中に、教師の実話として、印象に残った文がある。胸を打つ文を黒板に書き「どう思うか」と振り返った時に、一人の少年が手を挙げ、詳しいことはちょっと忘れてしまったが、文の形式的なルールについて指摘した。その発言に対して、‘この子の背景にはどんなことがあるのだ、と愕然とした’というような内容だったと思う。背景にあるのは、それまでの冷たい画一的な教育と、かわいそうな家庭環境のせいなのでは、といったことが言いたいようで、私もしみじみそう思ったものだった。印象に残り、ずっと頭の片隅にあった内容である。ところが今ふと考えると、まさに息子がそのように発言しそうではないか。教育のせい?家庭のせい?そうは思えない。じゃあ何なのか。それは、その傾向にある子や、そういうものを持った子の特性にすぎないのでは。そう思うと、自分の工夫や頑張りの影響ってなんなのだと思ってしまった。