以前は参観日などで、あきらかに周りと違う雰囲気である我が子がほんの少し気になるって程度だったのが、家の中で気になるようになった。
 教室では、多少そんなでも、私も段々図太くなってしまったし、先生もある程度は大目に見てくれているようだった。ただ、鼻のかみ方とか、落とした物で平気で口を拭うとか、そりゃ汚いけど、わざわざそれを親に伝えなければいけないのか。家の中でだってそりゃそういうことを注意もしている。そんな細かいことを言う割に、どういう感じで先生や友達と関わっているか、情緒的なことや表現力など人間性に関しては、あまり言葉がなく、日本の小学校教育にはおおいに不満と不安がある。そんな見方で、こちらのできないことばかりを挙げて、そんなことが人間にとって重要なことか?と思ってしまう。鼻のかみ方が、「一般的」じゃなければ、一般的にしなければならないのか。鉛筆の握り方はまだしも。それでも、私はアメリカで、「正しい鉛筆の握り方」なんて、教えてもらったことがない。おかげで日本で言えば「変な」握り方ですけどね。こうしなければならないってことが、それほど「ならない」ことなのか、私にはそこが納得いかない。だから、帰国した時に圧倒されたのではないだろうか。「皆一緒だ」っていうことに。何もかも。揃えたがるしさあ。初めて日本の教室に入った瞬間から、何年も「皆一緒」ということに、おそれを抱いてきていた。中学高校で伸び伸び過ごせてからようやく、その窮屈な気持ちからは解放されたが、他校の「皆一緒」が気になって、わざわざ新聞に投書して載せてもらったこともある。
 まあ、そういう教育に対する細かい愚痴や不満は良いとして、息子は家の中で、物に無頓着過ぎる。破いた物を、破いた先から床に落としても平気とか、使った物を床に置きっぱなしとか、それですぐ失くすし、本人にとってもそれがストレスになって、泣いたりイライラしたりしている。感情的に叱っても悪化するばかりと知っていることもあるが、実際に接していて、これが一番良い方法と思うのが、ただ何度も事務的に注意を繰り返すということである。でも、息子にはその傾向があるので、身につくのが時間がかかる。なので、ひたすら繰り返し言う、ということを年単位で続けなければいけない。
 発達障害と、今呼ばれている人たちにも、重度と軽度があり、そこから離れたところに、個性がある。
 で、離れている個性と、発達障害と呼ばれる間の人たちはいないのかと言えば、そこは「傾向がある人」と、分類されるらしい。
 我が子はその「傾向にある程度ですよ〜」ということで、軽度にも当てはまらないそうだ。じゃあ、軽度と傾向の境目って、どのくらい辺りかわかるんでしょうかと思うと、これもまた私にはよくわからない。
 重度と言っても、どんなものなのか。あの人は明らかにそういうタイプだなと思っても、それが重度なのか、軽度と重度の真ん中なのか、よくわからないし。かなりその色が濃い感じだと思っても、本人が、それなりに日常生活を送れていて、周りの人にもある程度認められているのなら、それは何なのでしょうね。